ヴラド三世

吸血鬼ドラキュラ夜な夜な美女を襲いその血を吸うと言われる吸血鬼ドラキュラ。

苦手なものは太陽光と十字架、そしてニンニク。

架空の怪人として映画や漫画によく登場するキャラクター(たいていは美形)ですが、実はこのモデルになったのは中世ヨーロッパに実在した人物です。

アイルランドの作家ブラム・ストーカーの小説『ドラキュラ』に登場する吸血鬼・ドラキュラ伯爵のモデルにされたことでもますます汚名(?)が知られるようになってしまいました。

 

ヴラド・ツェペシュ公爵

ヴラド三世15世紀のワラキア公国(現在のルーマニア)の君主ヴラド3世は通称ドラクレア公爵(ドラキュラ)と言い、「串刺し公」という恐ろしいあだ名で呼ばれることもありました。

ヴラド・ツェペシュと表記されますが、「ツェペシュ」は姓ではなくて、ルーマニア語で「串刺しにする者」を意味する単語で、「ドラキュラ」と同様にニックネームです。

ですから、名前は「ヴラド」です。

ヴラド3世は1431年11月10日、トランシルヴァニア地方のシギショアラでヴラド2世(通称:ドラクル=竜公)の次男として生まれました。

この年、父ヴラド2世は神聖ローマ帝国からドラゴン騎士団の騎士に叙任されました。

彼のドラクルという通称はこの竜騎士団の竜(ドラコ)に由来するものです。

また、現地の言葉で”a”を語尾に付けることで「~に属する」または「~の子」という意味なので、ドラクル公の息子だからドラクレア(Drăculea 英語:Dracula=ドラキュラ)公と呼ばれたという説もあります。

ヴラドが生きていた時には「串刺し公=ツェペシュ」よりも「ドラキュラ」というニックネームの方が多く使われていたのではないかと思われています。

さすがに「串刺し公」という忌まわしいあだ名を公に使う人はいなかったでしょう。

また、本人の直筆と思われるサインにもラテン語の表記で「ヴラディスラウス・ドラクリヤ」とあるので、ドラキュラというニックネームはヴラド自身も好んで使っていたのではないかと推測されているそうです。

 

串刺し公

串刺しの刑ヴラド3世は歴史上の人物の中でも、残虐な人物ということで知名度のある君主です。

それは本国以外でも有名だったようで、1464年、当時ハンガリーに駐在していたローマ教皇の使節ニコロ・モドルシエンセがバチカンに送った書簡の中にも報告されています。

例えば、反逆者の処刑方法ですが、裸にされて生きたまま内臓が見えるまで皮や肉を剥がれ、殺されたとか、ある者は真っ赤に燃える炭火の上であぶり焼きにして殺されという一節があります。

また頭や胸、尻、あるいは腹の真ん中など、場所を問わず体中を串刺しにされた者、垂直に立てた杭に肛門から口まで飛び出すほど突き刺された者などもいたそうです。

彼がこのような残虐な処刑を行ったのはこれが初めてではありませんでした。

実はその8年ほど前にも同じようなことを行っていたのです。

ヴラド・ツェペシュ公爵は、自分の城に地元の貴族を数百人招き、宴会を開きました。

食事を楽しみながら、彼らに色々と質問などをしていたそうですが、自分が尋ねたことに数人が微笑をもらした瞬間、ヴラドは右手をあげて部下に合図を送ったのです。

示し合わせていたのでしょう、すぐさま部下が広間になだれ込んできたと思うと500人以上の貴族がその場で拘束されました。

彼らはそのまま引っ立てられ、一言の弁解すら許されず、宮殿の中庭で串刺しの刑に処されたのです。

最初から処刑するために言いがかりをつけた事件でした。

また、1459年には家臣をつれて丘の上で宴会を行いましたが、宴もたけなわの頃、宴席を囲むように地面と垂直に先端が鋭く尖っている杭を立てさせました。

そこへ普段から自分の統治に反抗的なザクセン人を数人連れてきたかと思うと、その杭に尻から突き刺し、全員を串刺しにして殺してしまったのです。

ヴラドは残酷な処刑などどこ吹く風と平然としながら、ワインを飲み、肉を食べ、血みどろの光景を楽しんでいたと言われています。

 

ヴラド・ツェペシュ公爵の最期

メフメット二世ヴラド・ツェペシュ公爵は勇猛な性格でもあったので、戦いでも数々の敵を撃破した優秀な指揮官でもありました。

当時、破竹の勢いでヨーロッパに侵攻していたオスマントルコの皇帝は「征服王」と呼ばれたメフメット2世で、この皇帝にも残酷なエピソードが多いのですが、彼との戦いで命を落とすことになりました。

1476年、ヴラドはブカレスト郊外の戦場にいました。

戦況が思わしくなくなったので、敵であるトルコ兵に化けていたそうです。

おそらく敵を欺くための策略だったのでしょうが、自分の部下たちに発見されると、当然敵兵だと思われ、よってたかって襲いかかられ、あっという間に容赦なく突き刺されてしまいました。

何百人もの部下や敵をあっさりと殺してきた君主は、多勢に無勢、なすすべもなく屍と化し、戦場に倒れたのです。

皮肉なことに、自分が無残に処刑してきた人間達とそっくりな死に様をさらすことになったのでした。

 

吸血鬼ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラド・ツェペシュ公爵 まとめ

15世紀はイスラム教の勢力から国を取り返そうとするキリスト教の勢力が十字軍を仕立てて、エルサレムなどに侵攻した時代です。

同時に、東ローマ帝国がオスマントルコに滅ばされた時代でもありました。

ヴラド・ツェペシュ公爵が残酷な異常者だというイメージは、カトリック大国であったハンガリーによるプロパガンダの影響も大きいようですが、現代の東欧では、ルーマニアを旭日の勢いだったオスマントルコの侵略から守るために戦った英雄としても高い評価を受けています。

歴史上の人物の評価はその時々によって変わるということが実感できる話だと思います。

 

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