世界というのは広いもので、ある地域では、地中で蒸し焼きにした「牛の首」を至高のおもてなし料理とする部族もいます。
では、日本において「牛の首」は、どのような意味を持つのでしょうか。
それは、この世で最も恐ろしい怪談話・・・
聞いたが最後、恐怖に怯えながら三日のうちに死に至るとされています。
誰も内容を知らない怪談話
この世で最も恐ろしいと噂される「牛の首」の怪談話。
伝え聞いた話によると、19世紀前半ごろには、既に人々の間で囁かれていたようです。
しかし、その内容を知る者は、誰一人として存在しないと言います。
内容は、他に追随を許さないほど恐ろしく、話を聞く途中で耐えきれず気絶する者が出るほどだったようです。
さらに、詳しい内容を知ったものは三日のうちに死んでしまうという噂が、人々の恐怖を煽りました。
「牛の首」を聞いたがために膨大な数の人が亡くなってしまったのだとか・・・
この怪談話には作者がいましたが、多くの死者が出たことにショックを受け、それ以降は誰にも話をしなくなりました。
そして、内容を胸に秘めたまま、静かに亡くなっていったとされています。
そのため、詳しい内容を後世に引き継ぐ者が完全に途絶えてしまったのです。
しかし、題名と「話を聞いた者は、恐ろしさのあまりに三日のうちに死んでしまう」という情報だけは受け継がれてきたようです。
怪談話として、これ以上に人々の好奇心を刺激するものはなく、インターネットが普及した後は、話の全貌を明らにしようと情報を集める者も現れはじめました。
今では、「牛の首」の話の存在自体が、一種の都市伝説として扱われています。
真相に迫った掲示板サイト
存在を囁かれながらも、誰も内容を知らなかった怪談話。
長い歴史の中には、好奇心から詳しい内容をあばこうとしながらも、情報不足に嘆いた者も多くいたことでしょう。
しかし、ネットの登場で情報化社会となった現代。
交換される情報の量やスピードは、以前とは比べものにならないほど進化しました。
そんな中、ついに「牛の首」の真相では?と考えられる情報が、ネット上に表れることになりました。
2002年の5月21日、電子掲示板サイト「2ちゃんねる」にあるオカルト板に、ある書き込みがされたのです。
それによると、「牛の首」の話が生まれたきっかけは、明治時代に行われた廃藩置県の政策で、一人の役人が東北地方に調査に訪れたことにあると言うのです。
牛の首の内容とは?
内容を簡単にまとめると、次のようなものでした。
時代は明治初期、政府から派遣された一人の役人が、東北の地に赴きました。
目的は、検地と人口調査。
地価に基づいた定額金納と常備軍の徴兵制度のために行われたものです。
役目を果たすべく、地域を転々と調べていると、荒れ果てた廃村に行き着きました。
村の中を調査してみると、大量の人骨と牛の頭らしき動物の骨が、大木の根元に埋められているのに気がつきます。
常識では考えられない出来事に遭遇したため、調査台帳に特記事項として骨の数を記し、逃げるように次の目的地である南村へと移動していきました。
南村での調査も無事に終わり、村外れの宿に宿泊することにした役人は、廃村で見た不可思議な骨の山のことを宿の主人に尋ねました。
すると、「関係のあることかどうか分かりませんが・・・」と前置きした上で、ある出来事について話し始めました。
この地域一帯は、天保3年(1833年)から大飢饉に襲われました。
俗に言う「天保の大飢饉」のときのことです。
当時の様子を記した見聞録には、「倒れた馬にかぶりつき生肉を食らい、行き倒れとなった死体を狼や野鳥が食いちぎる」という記述が見られるほど悲惨なありさまでした。
一説によると10万人もの死者が出たとも言われています。
異変が起こったのは、天保4年の晩秋のこと。
夜ふけの南村に、おかしな侵入者があったのです。
身体は人のものですが、頭部は牛そのものという姿を持ち、ふらふらとおぼつかない足取りで村の中に進んできていました。
南村の住人が捕らえようとすると、とつぜん松明を手にした隣村の者が十数人なだれこんできました。
鬼気迫る形相で「牛追い祭りじゃ、他言無用」と叫びながら、牛頭の侵入者に縄をかけて、闇の中に消え去っていったのです。
異様な出来事を、南村の住人は不審に思いましたが、なにせ飢饉の間に起こったことです。
口にできる物もない有様では、隣村の様子を確認しに行く気力もありませんでした。
翌年の徳政令で年貢の軽減が行われ、やっと隣村を訪れた頃には、すでに村人や家畜の姿は消え去っていました。
それ以降、その村は「牛の村」と呼ばれるようになりますが、近づく者もおらず、今では村の名も忘れ去られようとしています。
宿の主人の話は、ここで終わります。
役人は、その場で解釈することは避け、役所に戻って調査台帳を整理した後に、懇意にしていた職場の先輩に意見を求めました。
その結果、導き出された答えが、「大飢饉の折には餓死した者を食することがある」という話に基づくものでした。
「牛の村」の住人は、餓死者の遺体だけではなく、弱った人間を食らっていた可能性があると言うのです。
生きた者を食らう罪悪感を減らすため、牛の頭皮をかぶせ、牛追い祭りと称して狩りを行っていたのかもしれません。
役人が発見した人骨の数は、「牛の村」の住人の数に相当し、牛骨も家畜の数と一致していました。
飢餓の極地に追い込まれ、修羅と化した村人たちの行動。
筆舌に尽くしがたい出来事であったため、役人は村の記録を破棄し、廃村として届けることにしました。
悲惨な現実を広めるには、はばかりを感じていたこともあったのでしょう。
その後、役人は「牛の村」での出来事を誰にも話さず、胸の奥底へとしまい込みました。
しかし、日露戦争が激化するころ、病床についた役人は戦乱の世に何か思うところがあったのでしょう。
枕元に孫たちを呼び寄せ、切々とこの話を語り聞かせました。
この時の孫の一人こそが、「2ちゃんねる」に書き込みをした人物だったと言われています。
そして、役人の死後に一つのことに気がついたのです。
「何の関係もなかったように思われた南村の住人。彼らこそが牛追い祭りを行い、隣村の者を狩り食らっていたのではないか・・・そうでなければ、誰が『牛の村』の住人すべての骨を埋めることができるのか・・・」
人としての禁忌に触れる「牛の首」の話。
決して繰り返してはならない出来事でありながら、話されてもならないこと。
その事実から「呪い」の要素がつくようになりました。
誰も伝えず、内容も分からない怪談話。
聞いた者は、三日のうちに死ぬという情報だけが、世に広く伝わっていったのです。
牛の首の真相
じつは、この「牛の首」という怪談話は、本当に存在していないのです。
「話を聞いたものは、三日のうちに死ぬ」というインパクトから、題名だけが一人歩きしたようです。
一説によると、作家の小松左京が1965年に発表した同名の短編小説が「牛の首」の知名度を高めたとされています。
かなり有力な説で、小説の内容を垣間見てみると、納得してしまいます。
作中では、次のように話が進められています。
「今までいくつも怖い話を聞いてきたけれど、一番すごいのは…」
「ああ、あれね…」
「『牛の首』の話」
「あれは本当にすごいね」
「すごいばかりじゃなく、後味が悪い…」
こんな会話を耳にすれば、嫌でも気になってしまいます。
小説の中でも、会話を耳にした男が内容を知りたがり、首をつっこんでいくことに。
しかし、会話をしていた人たちは、「聞かない方がいい」、「聞くと必ず悪いことが起こる」の一点張りです。
どうしても内容が知りたい男は、他の人にも尋ねていきます。
すると、その話を知っている人が相当数いることに気がつきます。
しかし、誰もが「言えない」「思い出すのも嫌だ」「他をあたってくれ」と、話すことを拒否します。
なんとか話の出どころを知ろうと調べていくと、あるミステリー作家のもとへと行き着きました。
家まで押しかけ「話を聞かせてほしい」と懇願しますが、作家は恐怖と蝋梅の色を浮かべながら、「今日は用事があるから、明日にしよう」と答えます。
しかし、翌日訪問すると、作家は急用ができたと外国へと長期旅行に出た後でした。
そこで男が知った驚愕の事実は、誰も「牛の首」の内容を知らないのだということでした。
題名とその恐ろしさだけが伝わる話、実際には誰も聞いたことがない話・・・
内容を知らないのに、恐怖の感情だけが連綿と生き続けている話なのです。
そして、男もこの怪談話を知らない人に広めていく媒体の一人となっていくのです。
以上が、小松左京による短編小説「牛の首」の概要です。
ちなみに、「2ちゃんねる」に書き込まれた話は、「牛の首」という怪談話は実際には存在しないことを前提としたうえで、読み手が楽しめるように創作されたものだと考えられています。
牛の首~三日のうちに死に至る!?この世で最も怖い話の真相とは~ まとめ
実際には存在しない「牛の首」の話。
内容が分からないからこそ、長い時をかけて多くの人を魅了してきました。
真に人を恐怖に陥れるもの、それは知らないからこそ生じる不気味さなのかもしれませんね。