獄中で死と向き合いながら書き綴った短歌『遺愛集』は獄中の歌人・島秋人が処刑されてから発刊された歌集です。
中村覚(のちの島秋人)の幼少期
島秋人殺人事件を起こした犯人、中村覚は1934年に朝鮮で生まれ、父親が警察官であったことから仕事の関係で、幼い頃は満州、朝鮮を転々としていました。
終戦を迎えるころ、一家は故郷の新潟県柏崎市に引き上げることとなります。
ところが終戦を境に父親が公職追放となり、さらに肺結核を患っていた母親は過労がたたったのか、栄養失調で亡くなったのです。
このため、まだ幼い彼や彼の兄弟たちは家事もろくにできないまま家に残され、彼自身もその生活の中で、蓄膿症、百日咳、中耳炎を患います。
そうしたこともあってか、集中力や根気に欠け、学校での成績は悪く、落第点を取ってしまったために教師やクラスメイトからは「低能児」と呼ばれていました。
小学校5年生の時には試験で0点を取り、教師から棒に殴られるなどをしていたため、それを避けるためによく教師から逃げ回っていたといいます。
そして中学校卒業後、彼はガラス工場やクリーニング店で働き始めますが、いずれも長くは続かず、彼は次第に自殺願望を持ち、生活は荒れ始めました。
そして強盗殺人未遂事件などを犯して、特別少年院に入れられるます。
さらにその後、放火で懲役4年を言い渡されています。
服役中には、ヒステリー性性格異常と判断され、医療刑務所から新潟県の長岡市にある県立療養所に入れらたのです。
1959年2月には療養所を出て、父親のいる三条市に戻り研磨工場で働き始めますが、すぐに家出。
彼は町をふらふらしながら上京を決意しますが、そのための資金などはどこにもなかったため、彼は犯行に手を染めてしまいます。
島秋人殺人事件の概要
4月5日、彼は新潟県小千谷の寺で宿泊に断られた後、近くの農家Sさんの家の軒先におなかをすかせ座り込んでいました。
人の気配に気づいた鈴木さんが顔を出し、彼の姿を見て、「泥棒!」と叫びます。
驚いた彼は慌てて鈴木さんを追いかけ、家の中に侵入。
そこで、その家の家族全員を縛り上げ、始発電車が出るまでの5時間、家に居座ったというのです。
明け方になって彼は、いったん鈴木さんの家を出たものの、100mほど出たところで舞い戻り、金づちで鈴木さんを暴行。
さらに止めに入った鈴木の妻Nさんをタオルで絞め、絞殺し、家にあった現金2000円と時計などを奪い逃走します。
その数日後三条市内で、あっけなく警察官に逮捕されました。
1960年3月の裁判にて「被告人は意志不安定、爆発の傾向を示し、容易に反社会行動を引き起こす危険がある」と彼は裁判長に死刑を言い渡されます。
中村覚 先生に絵を送る
一審判決後、彼はたまたま獄中で読んだ小説「裸の王様」から絵を描きたいという衝動にかられます。
そして同時に小学校の時、図工の吉田好道先生から言われた「君は絵が下手だが、構図がいい」という言葉を思いだしたのです。
彼は学校生活の中で褒められた思い出はこれだけであり、その感謝の気持ちから自身の現状や想いなどをしたためた手紙をこの先生に送り、児童の絵が欲しいと伝えました。
そのとき彼が、児童の描いた絵が見たいと思ったのは、童心に帰りたいという想いからだったといいます。
彼から手紙を受け取った先生は、彼のことをほとんど覚えていなかったそうですが、その内容と自分のたった一言を忘れなかった教え子に涙し、妻と2人で絵を送るとともに返事を書きます。
その絵には添えられた3つの短歌に感銘を受けた彼は、歌の世界にひかれていくようになりました。
短歌に目覚めた島秋人
彼はすぐにこのような返事を出します。
僕は満州から引き揚げてきてから今日まで、自分には不幸な運命しかないものだと諦めて来ましたが、世の中にはまだまだ親切な方々がいられて僕のような罪人となった教え子でも心から温かい同情のお心を寄せてくださると思えば、先生に対して今の僕はとても申し訳ない気持ちでいっぱいです、僕は今まで他人から同情を受けたことが少ないので嬉しい気持ちでいっぱいです
吉田先生夫婦との文通はその後も続き、彼は俳句を好んでいたそうですが、先生夫婦の奥さんから勧められたことで、短歌をしたためて手紙を送るようになります。
奥さんは手紙に書かれた短歌を見て才能を感じ取り、そして彼に「島秋人」という仮名を与えたのです。
「島」は彼がかつて住んでいた島町からとり、「秋人」はシュウジン(囚人)と読めることがその由来です。
才能の開花と作家活動
彼は作家としての活動を開始します。
奥さんの勧めがあり始めた「毎日歌壇」への投稿で、選者の窪田空穂さんの目にとまり、まもなく窪田さんを師事し、その才能を伸ばしていきます。
彼は短歌を詠む死刑囚として外国の雑誌「タイム」にも紹介されたそうです。
またその歌に多くの人が感銘をうけ、励ましの手紙が届くようになります。
千葉てる子さんもその一人で、義理の母親になります。
島秋人 辞世の句
この時、中村姓から千葉姓に変わり、同時にてる子さんの影響でキリスト教の洗礼をうけたといいます。
しかし、その後の2審も判決は変わらず、そのまま死刑が確定。
1967年11月1日、彼は独房で歌集の整理に取り組んでいるところに、拘置所長から翌日の死刑を言い渡されます。
それは精力的に「毎日歌壇」への投稿を続け、ついに書簡集の作成に着手し始めた年のことでした。
その日の午後になって、彼は、郷里から駆け付けた父親や獄中の彼に支援し続けた義母など、2、3人の人たちと最後の時間を過ごします。
彼は最後にこう言ったそうです。
もう泣かないでください。でも無理かな。僕も少し興奮しました。恥ずかしい。僕の考えはこのひと時を最後の聖餐式のようなつもりで、楽しくお話しして、お別れしたいですが……
夜に彼は「毎日歌壇」への最後の投稿の歌を書き、辞世の歌、6首を自身の歌集の最後に付け加えました。
この澄めるこころ在るとは識らず来て 刑死の明日に迫る夜温し
土ちかき部屋に移され処刑待つ ひとときの温きいのち愛しむ
七年の毎日歌壇の投稿も 最後となりて礼ふかく詠む
出典:遺愛集 島秋人
https://www.aozora.gr.jp/cards/001970/files/58885_69621.html
そして翌朝、小菅刑務所へ移され、彼の刑は執行されます。
その1か月後、彼の念願だった歌集が刊行されました。
島秋人殺人事件 まとめ
1人の男性が起こしたこの事件。
彼は幼少期から問題の多かった子供であり、そのためか大人になってからも数多くの犯行に手を染めた結果、死刑判決が下されてしまいます。
皮肉なもので、死刑囚となってから自身の才能を見出され、それをいかんなく発揮し、本を出すまでに至ります。
それを見ることは許されず、刑は執行されたのです。
もし幼少期にその才能が見出されていれば、このような結末にならなかったのではないでしょうか。
Спасибо. Очень интересная статья. Не знал.