日本の宗教に関する事件が1900年代に起きました。
イエスの方舟事件と言われています。
「極東キリスト集会」と「イエスの方舟」
1965年~1977年、東京多摩地区である宗教団体の入信をきっかけとして家出し、家族から捜索願が出されるといった事件が相次ぎました。
その宗教団体は「聖書研究会極東キリスト教会 イエスの方舟」
教祖は千石イエスこと、千石剛賢。
千石は兵庫県有田村の資産家の家に生まれます。
戦後鎌製造工場を作ったそうですが大阪に出て磁器指輪の販売を始め、1951年ごろ京都市に本部を置く、堺市内の「聖書研究会」に出入りするようになったといいます。
やがてその主宰、村岡太三郎と袂をわかったことで「極東キリスト集会」を設立します。
1959年には家族と信者13人を従えて上京。
府中市や小平市などを転々として布教を続け、家出してきた信者などを引き取り、1965年ごろから共同生活を始めます。
信者は各家を周り、刃物砥ぎ・行商をしながら布教し、そして1975年国分寺市恋ヶ窪に拠点を移し、「イエスの方舟」と改名しました。
イエスの方舟事件の概要
1977年5月、7件もの捜索願を受けた警視庁は防犯部一課に特別捜査班を設置します。
しかし、千石と共同生活を続ける女性はいずれも自分の意志でそうしたもので、「家に帰るぐらいなら死んだほうがましだ!」などと家族の呼びかけに対し拒絶。
また方舟自体にも法に触れるような容疑は見当たらなかったため、当時警察は意志ある大人である彼女たちを無理やり家に連れ戻すことはできなかったのです。
同年暮れから翌年にかけて、女性たちの家族が団結してイエスの方舟へ押しかけ、集団抗議を行います。
ハンドマイクで「娘を返せ!」と叫びもみ合い、千石の妻らが負傷することもありました。
そしてマスコミがこれに続く形で「現代の神隠し教団」などのバッシングが始まります。
新聞には女性の家族の声を借り、「まるで人攫い」などという見出しが躍ったそうです。
これにより当時の多くの人は女性をかどわかしてハーレムを作る邪教という印象を持ちます。
1978年4月21日には布教活動が難しくなったことや、教祖千石の心筋梗塞が悪化したことから、信者たちは国分寺の教会を離れ、5月には千石も東京を後にします。
一行は大阪・岡山・神戸・明石などを転々とし、1978年12月からは福岡市内のマンションを拠点とし活動を始めました。
信者の女性たちはホステスとして働いていました。
そして1980年に入ると雑誌に信者の親たちの手記が掲載され始めたのです。
イエスの方舟の入会手口
そのころ教会の刃物砥ぎといって数人のおばさん風の女性と男の人が私どもの住んでいる地域をまわっておりました。
この刃物都議は実は勧誘の手段で、気を許して何度か本部に行ってみるうちに、心を開きやすくなり世間話をしながら悩みを聞き、相談に乗り、不思議な世界へ誘い始めるのです。
娘たちのほとんどはこの手口で入会させられています。
しかもお話を聞いてみると惹きつけられて、行方不明になったのが皆17、18~20歳の娘ばかりというのが異様でした。
どうやら千石という男は自分を「イエス」と呼ばせて、周囲に十数人の若い女性ばかりを集めているというのです。
監禁と洗脳
若い娘はべニア板張りの3畳に閉じ込められていました。
日光にも当たらず、窓もなく、外の空気も十分に吸わせてもらえず。
この暗い部屋で毎日、千石剛賢の呪文を講義として聞かなければならなかった日々。
毎日同じ言葉の繰り返しはまさに洗脳であり、人間改造をされたとも考えられました。
見えるもの、眺められるものはベニヤ板の壁だけでした。
聖書の勉強と称してでたらめな話をいかにもそれらしい言葉で表現し、毎日何度も何度も繰り返し聞かされるのですから、神経は破滅し自分の意思はなくなります。
粗食の中での洗脳ですから、娘はロボットにならざるを得なかったとだれもが思いました。
全国指名手配
これらの手記が新聞や雑誌などに取り上げられたため、彼らに対する彼らの目はさらに厳しいもとなりました。
同年7月3日、警視庁防犯部は千石と幹部5人に対し、名誉棄損と暴力行為などの容疑で逮捕状を取り全国に指名手配します。
この時、家族から捜索願が出されていた女性は9名にものぼっていたのです。
またその女性たち以外にも一向に加わっていた女性が数名いました。
30代の夫婦の間にいた小学校2年生と3年生の男の子は、当時不就学児ではないかと考えられていたそうです。
捜査と逮捕
1980年7月、一行26人が熱海の印刷会社の寮で発見され、捜査員が突入しました。
ここは密着取材を続けていたサンデー毎日の記者が用意し、彼らを引き入れた場所でした。
捜査員が入る直前に教祖千石は狭心症の発作を起こし市内の病院に入院したため、この時の彼の逮捕は見送られます。
この時、11人の女性信者たちはそのまま寮に残りました。
「女性たちは千石にホステス勤めを強要されているのでは」「千石に日常的に虐待を受けているのでは」という見解、情報もあったそうですが、捜査員が言うには、そのような痕跡は無かったのです。
そして7月4日、女性たちは印刷会社の寮で記者会見を行いこのように発言します。
- 誤解を解くために出てきました。
- 共同生活は楽しかった。
- 私たちは千石氏を責任者、おっちゃんと呼んでいた。
- 親子の理解が浅かった。今でも千石氏以外頼れる人がいない。
- 自分を本当に理解してくれる人は責任者しかしない。
- ホステスは自分たちの考えで決めた。強制なんてされたことはない。責任者はキャバレー勤めにすごく胸を痛めていた。
また入院中の千石は病院関係者にある告白をしていました。
それは「7年前に信者の自殺があった」というもので、彼はその信者の遺書を肌身離さず持ち歩いていたといいます。
少女たちが教祖・千石剛賢を選んだ理由
千石剛賢は荒川区内の病院に移され、22日に巣鴨少年センターに出頭。
普通なら教祖が逮捕さると事件は一件落着し、教祖バッシングも続いていくと思われていましたが、そうは至りませんでした。
これは千石が新興宗教の教祖にありがちな、拝金主義もカリスマ性もない、ただただ普通の人物であったからと言われています。
彼についていった女性のほとんどが母子家庭で育った女性で、これは千石に父親像を見いだしたためだと考えられます。
その家族は娘が出て行った理由が自分たちにあるとは考えず、イエスの方舟に押しかけて教祖千石を責めるしかなかったのではないかと考えられています。
千石剛賢は名誉棄損で書類送検されましたが、女性らの証言から不起訴処分となります。
事件後、多くの信者は家族と和解し、家族の元に戻った人もいます。
しかし、女性たちのほとんどは、騒動の翌年に開いた中洲の「シオンの娘」というクラブで働きながら共同生活を続け、千石のそばを離れようとはしませんでした。
新たに訪ねてくる人もいたため、騒動時より信者の数は増えたそうです。
このお店はイエスの方舟という看板が店前にあったのですが、意外にも繁盛していたと言います。
イエスの方舟事件 まとめ
教祖・千石剛賢をバッシングしていた家族にとって、実は自身の家庭環境に問題があったなんて知ったときはさぞかしショックだったことでしょう。
どっちが悪いのかわからなくなってきます。
今では未成年を連れ歩いているだけで犯罪になるため、家族にとっては安心です。
しかし、いつの時代も家庭の問題はあるのかもしれませんね。
画像出典:西日本新聞
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