ドバイ日航機ハイジャック事件

よど号ハイジャック事件、三菱重工爆破事件、テルアビブ空港乱射事件など様々な事件を起こした赤軍。

彼らの暴走は止まることがなく、手段を選ばない凶悪な事件を次々と起こすこととなります。

ドバイ日航機ハイジャック事件

1973年7月20日、爆弾などの武器を持った「パレスチナ解放人民戦線」通称PFLP4人と赤軍メンバー5人の混成部隊が、フランス・パリ発オランダ・アムステルダムのアンカレジ経由、羽田行きの日本航空404便に搭乗しました。

赤軍派メンバー5人はその以前に起こしたテルアビブ空港乱射事件に直接参加はしていないものの、殺人共犯で指名手配となっています。

搭乗後、ハイジャック犯グループの1人の女性がアムステルダム離陸後に2階のファーストクラス・ラウンジで、誤って手榴弾を爆発。

この女性は死亡し、近くで接客にあたっていたチーフパーサが顔面に重傷を負いました。

またのトイレで着物に着替えていた客室乗務員は、誤爆した犯人女性の飛び散った肉片を片付けさせられたと言われています。

そしてこの誤爆を合図に機内でハイジャックが発生。

飛行中、乗客乗員は全員両手を頭の上にかざした状態で犯人から監視され続けました。

犯人グループの要求

ハイジャック犯はイスラエル政府に、テルアビブ空港乱射事件で逮捕された岡本公三の釈放と500万ドルを要求し、レバノンのベイルートあるいはシリアのダマスカスへの着陸を求めます。

レバノンとシリアはいずれもこれを承認せず、やむなく飛行機はアラブ首長国連邦のドバイ国際空港に着陸。

その後ドバイに3日間駐機しその間に犯人グループから40億円の身代金の支払いと、逮捕されていた日本赤軍メンバー2名の釈放を要求する旨の脅迫状が日本航空の東京支店に届きます。

これらを受けてドバイ首長の弟であるモハメッド・ラシッド国防大臣や佐藤文正運輸政務次官らは犯人グループへの交渉をあたるものの、犯人グループは説得に応じることはありませんでした。

日航機の大爆発

結局交渉はうまくいかないままドバイ国際空港を離陸した同機は、シリアのダマスカス国際空港で燃料の補給を行った後、リビアのベンガジにあるベニナ空港に着陸。

そして犯人たちは機体を爆破することを乗務員に通知し、犯人の一人であるパレスチナ・ゲリラの1名を残し脱出。

乗員乗客は脱出用シュートを使い脱出していた時、期中に残っていた犯人の1人が機体を爆破します。

これにより日航機は大爆発し、燃え尽きた後には尾翼の一部を残しただけとなりました。

そして、脱出した犯人グループは投降したのです。

ドバイ日航機ハイジャック事件 その後

結局目的を果たせず、投降した犯人グループはリビア政府の積極的な援助の元、リビアの友好国を経由し国外へ政治亡命してしまいます。

政治亡命とは、自国で罪を犯した者に対して、犯人の祖国から身元の引き渡し要請があった場合、これを拒む権利があり、また祖国に往還すると迫害を受けることが予想されるものを送還される事は許されていないことから、自国での処置が求められる決まりの事です。

彼らの様な犯罪者は亡命者や難民と呼び、特に政治的な事件や思想的な事件の犯人に適用されることが多いとされています。

この時国外逃亡に成功した犯人の1人である丸岡修は、のちの日本赤軍が起こす大きな事件にも関与し、日本赤軍の軍事面のリーダーとして活動するようになっていきます。

なお日本赤軍と一緒にハイジャックを行い、その後逃亡したパレスチナ解放人民戦線のメンバーについては、その後の動向は伝えられていません。

こうして犯人1名以外の死者こそ出なかったものの、約600奥円のジャンボ機は爆破され、犯人は逃亡するという後味の悪い事件となってしまいます。

日本機が国外で乗っ取られたのは、これが初めてだったそうです。

シンガポール事件

1974年1月31日、武装した赤軍メンバー和光晴生、山田義昭の2名とPFLPのメンバー2人の計4人がシンガポールのブクム島にあるロイヤル・ダッチ・シェルの石油精製施設にボートで上陸し、石油タンクなどの施設をプラスチック爆弾で爆破。

この施設を爆破した理由として、同施設が石油のメジャー経営施設であることと、ベトナム戦争においてアメリカ軍への石油供給を行っていたことが理由に挙げられました。

その後犯人グループは逃亡しようとしたものの失敗し、施設内の従業員移動用ボート「ラジュー号」を乗っ取り、従業員5人を人質に取り、シンガポール領海内からの逃亡を画策したものの、シンガポール海軍艦艇や警察の沿岸警備隊に包囲されてしまいます。

この時警察庁から派遣された刑事たちが、シンガポール警察との協力の元、対処しようとしますがシンガポール警察がこれを拒否。
独自での解決を模索したそうです。

その後シンガポール政府当局や魚本藤吉郎駐シンガポール特命全権大使、エジプト大使などが説得を行います。

これに対し犯人グループはシンガポール航空機による国外への移送を要求したほか、イスラム教徒である人質と引き換えに魚本大使が人質となることを要求しましたが、拒否されます。

こうして犯人グループと当局の交渉は進まず、膠着状態に陥ったのです。

この事件の経て、事件は「在クウェート日本大使館占拠事件」へ向かってしまいます。

在クウェート日本大使館占拠事件

「シンガポール事件」の膠着状態を打破すべく2月6日に日本赤軍とPFLPを名乗る武装した5人組がクウェート市内になる在クウェート日本大使館を占拠。

駐クウェート日本国特命全権大使以下12人の大使館員を人質にした上でシンガポール事件犯人4人の武装したままでの国外出国を要求したことから状況が一変します。

2月7日、日本政府は急遽日本航空の特別機をシンガポールのチャンギ国際空港に派遣し、これに合わせシンガポール政府当局は、4人を武装したまま日本航空機に搭乗させます。

同機は同日未明に犯人グループ4人と日本政府関係者、日本航空の代替乗務員らとともにクウェート国際空港に向かい、両事件の舞台はクウェートに移ることとなりました。

当初クウェート政府は日本航空特別機の自国領土内への受け入れを拒否したものの、これに対して日本大使館占拠事件の犯人グループは「クウェート政府が日本航空特別機の受け入れを行わない場合は人質を殺害する」と宣告。

これに対してクウェート政府は日本大使館占拠事件の犯人グループの搭乗後、直ちに離陸することを条件に受け入れます。

クウェート政府の受け入れを確認した日本空港特別機は2月8日の朝にクウェート国際空港へ着陸。

その後シンガポール事件の犯人グループはクウェート政府当局者や 仲介役となったパレスチナ解放機構(PLO)関係者、日本航空特別機の機長立ち合いのもとで武装解除します。

その後、日本大使館占拠事件の犯人グループは日本空港特別機に搭乗しました。

そして日本空港特別機はシンガポール事件と日本大使館占拠事件の犯人グループ、日本政府とPLO関係者、日本航空の代替乗務員らを乗せた上で犯人受け入れを表明した南イェメンのアデンへ向かい現地で投降。

投降した両事件の犯行メンバーは、その後南イェメン政府の黙認の元、政治亡命しました。

この時逃亡した和光晴生と山田義昭もまた、のちに丸岡とともに重大事件にかかわることとなるのです。

過激さを増す日本赤軍

この後日本赤軍は捕まっている仲間を奪還し、組織を大きくするために手段を選ばない、過激な事件を起こしていくこととなります。

出典:ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E6%97%A5%E8%88%AA%E6%A9%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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