今から48年前の1972年イスラエルのロッド空港で日本人3人による乱射事件が起きました。
3人は空港ビル内で銃を乱射。
旅行客や空港関係者24人を殺害86人に重軽傷を負わせるという大惨事となりました。
この事件は日本赤軍「始まりの事件」と言われ、彼らの名が日本そして世界に知られるきっかけとなった事件でもあります。
また日本赤軍最高幹部である重信房子は事件発生の日を日本赤軍結成の日と位置付けており、ここから日本赤軍の暴走が本格化していきます。
日本赤軍結成 PFLPの活動に参加
テルアビブ空港乱射事件が起こる22日前の1972年5月8日。
パレスチナ過激派テロリストの4名がベルギーのブリュッセル発テルアビブ行き、サベナ空港ボーイング707型機をハイジャックし、同機をロッド交際空港に着陸させました。
彼らの要求は逮捕されている仲間317人の解放でした。
しかし、イスラエル政府はこの要求を拒否した上で、ハイジャックしているテロリストを制圧し、犯人の内2人は射殺され、残る2人も逮捕されました。
このハイジャックでは93人の人質の解放に成功したものの、乗客一人が銃撃戦で死亡してしまいます。
この事件を起こした組織である「パレスチナ解放人民戦線」通称PFLPは仲間の解放の失敗を受け報復としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画します。
しかし、アラブ人ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは日本のある組織に目を付けます。
それは日本赤軍の前身となる共産主義者同盟赤軍派の一部メンバーにより構成された組織です。
同組織はよど号ハイジャック事件など、幹部の逮捕により弱体化していく中で、国外に目を向けたメンバーが集まりできた組織で、やがて彼らは日本赤軍と名乗るようになります。
1971年2月4月26日に組織の幹部である重信房子と奥平剛士が国際根拠地論に基づき偽造結婚しパレスチナへ赴き、PFLPの国際義勇兵として活動に参加します。
当時の彼らは独立した組織との認識はされておらず、彼ら自身も「アラブ赤軍」「赤軍派アラブ委員会」「革命赤軍」等々、組織名が定まっておらず統一されていませんでした。
そんな日本人組織に対しPFLPはテロの協力を依頼し、これを引き受けた日本人によりロッド国際空港の襲撃が行われることとなります。
犯行を実行したのは奥平剛士、安田安之、岡本公三の3名で、岡本はよど号ハイジャック事件の実行犯である岡本武の弟でした。
奥平剛士は当時、組織の幹部で27歳。
安田安之は京都大学の学生で当時25歳。
岡本公三は鹿児島大学の学生で当時25歳でした。
テルアビブ空港乱射事件
1972年5月30日、フランスのパリ発ローマ経由エールフランス機でロッド国際空港に着いた3人はそれぞれナンバ・ダイスケ、スギサキ・ジロー、トリオ・ケン名義のパスポートを持ち入国。
そしてスーツケースから取り出したVz58自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて無差別に乱射したのです。
さらにターミナル前に乗客を乗せて駐機していたエル・アル航空の旅客機に向けて手榴弾を2発投げつけました。
この無差別乱射により乗降客を中心とした26人が命を落とし、73人が重軽傷を負いました。
死傷者の約8割が巡礼目的で訪れたプエルトリコ人で、犠牲者の内17人がプエルトリコ人、8人がイスラエル人、1人はカナダ人でした。
その後岡本公三は警備隊に取り押さえられ、奥平と安田は死亡しました。
奥平は警備隊の反撃で射殺され、安田は手榴弾で自爆したとされており、この事件、または彼らの死に様は中東の過激派の中では英雄化されました。
なお計画に携わっていたとされる檜森孝雄の手記によると「当初の計画では空港の管制塔を襲撃する予定だった」としています。
しかし、警備が厳重な管制塔を3人だけでどのように襲撃するつもりだったのかなど具体的な計画は不明で、実行に移すことはありませんでした。
世界に衝撃を与えた日本赤軍
当時はテロリストが無差別に一般市民を襲撃することは前代未聞であり、事件は衝撃的なニュースとして全世界に報道されたそうです。
日本人3人による民間人への無差別テロであるこの事件に対しては、国際的な非難が起こりました。
一方でイスラエルと対立するパレスチナの一部の民衆の間では英雄視され、事件後PFLPは実行犯である奥平の妻で日本赤軍の幹部である重信房子と共同声明を出し、事件発生の日を「日本赤軍結成の日」と位置付けるなど、これに対抗する態度を取り続けました。
アラブ-イスラエル間の抗争にも拘らず、実行犯が両陣営とは何の関係もない日本人であったことも世界に衝撃を与えた原因だったそうです。
日本政府は実行犯が自国民であったことを受けて、襲撃事件に関して謝罪の意をイスラエル政府に公的に表明するとともに、犠牲者に対し100万ドルの賠償金を支払っています。
また日本国内でも、連合赤軍による事件に続くテロ組織の凶行として、彼らの存在を国民に強く印象付けることとなります。
またこの事件において、武器を手荷物で簡単に持ち込むことができたことから、世界各国で搭乗時の手荷物検査や空港ターミナル内における警備が強化されるきっかけになったのです。
さらにこの事件ではパレスチナ・ゲリラをはじめとするイスラム武装組織の戦術にも大きな影響を与えたと言われています。
イスラム教の教えで自殺を禁じられていた当時のアラブ人にとって、彼らが初めから生還の望みがない自殺的攻撃を仕掛けたことは衝撃的であり、以降のイスラム過激派が自爆テロを肯定するようになったことに影響を与えることとなります。
北朝鮮と日本赤軍
2009年にはイスラエルの人権団体「シュラト・ハディン」が「北朝鮮が日本赤軍への支援を行った」としてプエルトリコ連邦裁判所において、遺族への総額3000万ドルの保守を要求し北朝鮮を訴訟。
しかし被告である北朝鮮側は裁判に出席しませんでした。
結局北朝鮮に対し7800万ドルの補償的損害賠償金と3億ドルの懲罰的損害賠償金を科しましたが、北朝鮮は賠償金を支払わない見込みだとワシントンタイムズが伝えており、その行方は現在でも明らかになっていません。
この判決については北朝鮮がよど号事件で赤軍を持ったことが大きく関係しています。
遺族らが「北朝鮮は赤軍のよど号ハイジャック犯に宿舎、アジト、通信装備、施設、交通などの便宜を提供し北朝鮮を訪問するテロ犯や革命家に自由に会えるように認めた」として、続けて「よど号ハイジャック後、赤軍が北朝鮮を国際本部・主要活動拠点にできるよう支援した」と主張し、結果この主張が認められる形となったのです。
唯一の生存者 岡本公三
実行犯の中で唯一生存した岡本公三ですが、事件後にイスラエルで終身刑を言い渡された後、捕虜交換で釈放され、現在はイスラエルと敵対する勢力の庇護を受けてレバノン郊外のアパートに居住しているそうです。(出典:ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%85%AC%E4%B8%89)
2003年岡本公三は共同通信のインタビューに応じており、その際の岡本は動作が緩慢で健康に問題がある様子でした。
これについてイスラエル英府は「岡本公三がイスラエルの獄中で治安機関から拷問を受けた後遺症による精神疾患で、発語などに障害を負った」としています。
2016年5月14日、滞在先のベイルートで共同通信の取材に応じパレスチナに骨をうずめたいと語ったうえで、死者の多くがプエルトリコ人だったことに対し「犠牲者には哀悼の意を表したい」と謝罪の言葉を口にしたそうです。
しかし別の取材では「あの事件はテロでなく、PFLPと共同で起こした武装闘争だった。武装闘争は今も昔も最高のプロパガンダになる」と語りました。
岡本公三を保護しているPLFPは「日本のメディアの本格的な取材に応じるのはおそらくこれが最後」としています。
テルアビブ空港乱射事件 まとめ
無差別自爆テロという最悪の事件を起こした3人でしたが、唯一生き延びた岡本公三も事件について反省や後悔といった気持ちは見られず、自身の行いを正義ともとれるような発言をしています。
そしてこの事件により、日本国内のみならず全世界にその存在を知らしめることとなった日本赤軍派は、この後さらに勢力拡大・武装化に向けその手段を択ばない最悪の組織へとなっていきます。
画像出典:警視庁
https://www.keishicho.metro.tokyo.jp/jiken_jiko/ichiran/ichiran_10/tehai_nihonsekigun.html