世間を震撼させる事件を次々と起こしたデモ組織、日本赤軍。
彼らはその規模を武力により拡大させ、のちに京浜安保共闘と手を組み、連合赤軍へとその姿を変えていくこととなります。
そしてその武力と思想は、ますます強大なものになっていき、日本歴史に名を残すような凶悪な事件を次々と起こしていきます。
「三菱重工爆破事件」これはのちに日本赤軍と大きく関係することになるのです。
テロ事件実行グループ「狼」 三菱重工爆破事件
1974年8月、東京丸の内ビル街のど真ん中にある三菱重工本社ビルが爆破されました。
通行人を含む死者8名、負傷者376人という被害者を出した、戦後日本の最悪な爆破テロ事件です。
爆発の原因は、1階出入り口のフラワーポットに仕掛けられていた爆弾の爆発によるものでした。
この爆弾の被害がこのように大規模なものになったのは、ビル街という特殊事情に加えて、社内の連絡体制の不備があったとも指摘されています。
このテロ事件を実行したのは「狼」と名乗る「東アジア反日武装戦線」のメンバー4名。
東アジア反日武装戦線とは、学生運動のグループである「Lクラス闘争委員会」が消滅した後に、その主要メンバーだった大道寺将司を中心に結成されたグループです。
学生運動とは言葉の通り学生が、主に社会的政治的な思想を掲げデモなどの運動を行うことをいいます。
今からおおよそ50年以上前の1960~1970年代の日本はまさに学生運動の最盛期でした。
今の日本ではとても考えられませんが、当時の日本では「活動家」と呼ばれた学生たちが討論学習を行い、政治や思想を掲げ、時には大規模なデモ活動を行い、機動隊ともみ合い死者が出るほどでした。主に戦中日本がアジアで行ってきた植民地などの「悪行」に対し、過激な反日思想を持って活動していました。
事件を起こした大道寺将司、大道寺あや子、佐々木規夫、片岡利明の4名は自らを狼と命名し、三菱重工を爆破する計画を始めます。
三菱重工をターゲットにした理由は、戦前・戦中に日本の重工業を支え、戦後も日本を代表する重工メーカーであり、防衛産業を手掛け、アジア・ヨーロッパ・北アメリカなど世界進出を行っていた三菱重工業に対し、犯行時点において「帝国主義を支援する企業」であると考え、グループの政治思考に基づき「経済的にアジアを侵略している」として「無差別爆破テロのターゲットとする」とうものでした。
そしてこのテロを起こした背景には1974年8月14日決行予定だった昭和天皇暗殺作戦、通称「虹作戦」に失敗したという経緯がありました。
この失敗を不甲斐なく感じた彼らはそれに代わるテロとしてこの連続企業爆破テロを行うことを決意しました。
三菱重工爆破事件の概要
1974年8月30日、午後0時25分ごろ、狼の実行犯4人は三菱重工業東京本社ビル(現:丸の内二丁目ビル)の1階出入り口フラワーポット脇に時限爆弾を仕掛けます。
ちなみにこの場所に仕掛けたのは三菱重工業東京本社ビルと道を隔てて反対側にある三菱電機ビル(現:丸の内仲通りビル)の両方を爆破する意図があったからです。
午後0時42分ごろ、三菱重工ビルの電話交換手に「三菱重工前の道路に2個の時限式爆弾を仕掛けた。付近のものは直ちに避難するように。これは冗談ではない」という怪電話がかかってきました。
そしてその電話からわずか3分後の午後0時45分に時限爆弾が作動。
戦後日本史上最悪の被害者数
この爆発の衝撃で1階部分が破壊され玄関ロビーは大破し、建物内にいた社員が殺傷されたほか、表通りにも破片が降り注ぎ、多数の通行人が巻き込まれ死傷しました。
三菱重工業東京本社ビルの窓は9階まで全て割れ、道を隔てて反対側にある三菱電機ビルや丸ビルなど周囲のビルも窓ガラスが割れていました。
また表の道路に停車していた車両も破壊され、街路樹の葉も吹き飛ばされるなど現場はまさに地獄絵図となっていました。
この時の爆発音は新宿でも聞こえたと言われており、その爆発の規模がいかに大きかったかがうかがえます。
この爆風と飛び散ったガラス片等により、三菱重工とは無関係な通行人を含む死者8名、負傷者376人を数えました。
これは、オウム真理教による無差別テロ、松本サリン事件と地下鉄サリン事件まで、戦後日本史上最悪の被害者数をだしたテロ事件でした。
甚大な被害を出したのは、爆発物の質量が大きかったこともありますが、割れたガラスが凶器になったほか、ビル内に入った衝撃波も階段などを伝わり窓から噴出しビル内部をも破壊したためであると言われています。
通常放射状に拡散する爆風がビルの谷間に阻まれ、ビルの表面を巻き上げ爆風の衝撃波で窓ガラスを破壊し、粉々になった窓ガラスが道路に降り注いだのです。
爆心には直径30cm、深さ10cmの穴が開いており、この爆発の威力は陸上自衛隊の調査によると「敵軍侵略を食い止めるために用いる、道路破壊用20ポンド爆弾よりも強力だ」と言われています。
爆破予告を軽視した
爆破予告が「単なるいたずら」と捉えられたことも被害を増やした原因とされています。
実は犯行グループは、爆発の8分前に守衛室へ爆破予告電話をかけていたそうです。
最初はいたずら電話として切られ、再度かけなおした時もすぐに切られており、もう一度かけ、電話交換手が爆破予告を最後まで聞いたのが爆破3分前の午後0時42分頃でした。
その際避難処置は取られませんでした。
本を読むような一本調子の無表情な口調で具体的なことを言わなかったため、電話交換手は爆破予告を冗談と思ったそうです。
しかし念のため庶務課長に電話で報告した上で、8階の庶務課長室へ向かうためにエレベーターに乗った時点で爆破しました。
このように大企業ゆえの社内の連絡体制に対する認識不足が原因だともいわれていますが、爆破の規模を考えるとすぐに避難していたところで被害を抑えられていたかは難しいところだと言えます。
この被害数は「狼」のメンバーも想定外だったそうで、彼らがその後引き起こした連続企業爆破事件では爆発の威力を抑え、爆破時間帯を深夜などにし、十分な予告時間を取って予告電話をするようにしたといわれています。
また予想を超えた多数の一般社員の死傷者に対し、グループ内部で議論となったともいわれています。
これらを踏まえ彼らは最初に作成していた犯行声明文を破棄し、最終的な犯行声明は9月23日付で連続爆破を予告するものでした。
以下、その犯行声明文。
一九七四年八月三〇日三菱爆破=ダイヤモンド作戦を決行したのは、東アジア反日武装戦線“狼”である。
三菱は、旧植民地主義時代から現在に至るまで、一貫して日帝中枢として機能し、商売の仮面の陰で死肉をくらう日帝の大黒柱である。
今回のダイヤモンド作戦は、三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に対する攻撃である。“狼”の爆弾に依り、爆死し、あるいは負傷した人間は、『同じ労働者』でも『無関係の一般市民』でもない。彼らは、日帝中枢に寄生し、植民地主義に参画し、植民地人民の血で肥え太る植民者である。
“狼”は、日帝中枢地区を間断なき戦場と化す。戦死を恐れぬ日帝の寄生虫以外は速やかに同地区より撤退せよ。
“狼”は、日帝本国内、及び世界の反日帝闘争に起ち上がっている人民に依拠し、日帝の政治・経済の中枢部を徐々に侵食し、破壊する。また『新大東亜共栄圏』に向かって再び策動する帝国主義者=植民地主義者を処刑する。
最後に三菱をボスとする日帝の侵略企業・植民者に警告する。
海外での活動を全て停止せよ。海外資産を整理し、『発展途上国』に於ける資産は全て放棄せよ。
この警告に従うことが、これ以上に戦死者を増やさぬ唯一の道である。
9月23日東アジア反日武装戦線“狼”情報部出典:ウィキペディア
拡大する爆破テロ
この犯行声明を発表後、「狼」班を含む東アジア反日武装戦線の各班が次々と爆破テロを起こしていきます。
- 同年10月14日。「大地の牙」班が三井物産本社屋を爆破。17人が重軽傷。
- 同年11月25日。「狼」班が帝人中央研究所を爆破。
- 同年12月10日。「大地の牙」班が大生建設本社を爆破。9人が重軽傷。
- 同年12月23日。「さそり」班が鹿島建設資材置き場を爆破。
- 1975年2月28日。3班合同で間組本社ビルと同社大宮工場を爆破。5人が負傷。
- 同年4月19日。「大地の牙」班がオリエンタルメタル社韓国産業経済研究所を爆破。
- 同年4月28日。「さそり」班が間組京成江戸川作業所を爆破。1人が重傷。
- 同年5月4日。「さそり」班が間組京成江戸川鉄橋工事現場を爆破。
このように1年未満にいくつもの爆破事件を起こし、三菱重工爆破事件以外は死者こそ出さなかったものの、重傷者や怪我人、建物などの損壊など大きな被害を出しました。
そんなテロ集団を一日でも早く逮捕しようと三菱重工爆破事件直後に警視庁丸の内警察署に設置された特別捜査本部は公安部と刑事部、双方から捜査員が投入され、異例の捜査態勢を取る形となりました。
捜査から逮捕まで
現場検証では現場に散乱していたガラス片40tの中から、時限装置とみられる時計や乾電池などの破片が発見されたそうです。
また爆弾はペール缶2個に詰められた、塩素酸塩系の混合爆薬約55kgの爆弾だったことが判明。
特別捜査本部は「爆弾はダイアマイト700本分に相当する」という見解を発表しました。
その後の警察の捜査で、犯行グループが出した犯行声明文と、教程本「腹腹時計」に用いられたタイプライターの書体が同一であることが判明。
同じ機種で打たれていたことが確認されました。
「腹腹時計」は1974年3月に地下出版され、爆弾の製造法やゲリラ戦法などが記されていたそうです。
そのため「腹腹時計」作成者と犯行グループは同一である可能性が高まります。
また犯行に使われたペール缶のうち1個は東京都内の工場でわずか70個しか製造されておらず、すべて東京都内で販売されていたことが判明します。
このような経緯から、特別捜査本部は被疑者として、当時「新左翼評論家」であった太田竜を拘束します。
太田はアイヌ人開放など「東アジア反日武装戦線」と革命理論が酷似していました。
しかしアジトから押収された「腹腹時計」に疑問符が記入されていたり、「自分の理論をまねているものがいる」と周囲に不満を漏らしていたりしたことが判明し、太田の潔白が証明されます。
公安部は太田の思考的人脈のどこかにメンバーがいると推理し地道な捜査により、東アジア反日武装戦線のグループ全体が把握されることになります。
太田の人脈から犯行メンバーの齋藤和と佐々木規夫が浮上し、この二人を追尾していくうちに犯行グループと思われるメンバーが把握されていきました。
彼らのアジトから出たゴミからは犯行声明文の書き損じなども発見されます。
当初は5月9日に一斉検挙する予定でしたが、おりしもイギリス女王エリザベス2世が訪日しており、不測の事態を懸念し延期されました。
5月19日に主要メンバーである大道寺将司、大道寺あや子、佐々木規夫、片岡利明、斎藤和、浴田由紀子、黒川芳正、協力者1人が一斉に逮捕されました。
この時の逮捕容疑は韓国産業経済研究所爆破事件のものでした。
事件後、日本赤軍へ
犯人一斉検挙で解決したかに見えたこの事件ですが、ここからこの事件は思いもよらぬ方向へ進んでいくことになります。
逮捕後、斎藤和は警視庁の取り調べ中に所持していたシアン化カリウムで自殺し、同じく大道寺あや子も服毒自殺を試みますが、警察官に阻止され失敗。
その後彼らの裁判が行われるのですが、公判中の1975年、犯人の一人佐々木規夫が、日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件で超法規的措置により釈放され出国。
その後赤軍に加入し、赤軍解散後も逃走を続け、現在も国際指名手配中です。
また大道寺あや子も1977年に赤軍が起こしたダッカ事件で、超法規的措置により釈放され出国。
1990年香港で日本赤軍最高幹部の重信房子と会合を持ったことが確認されていますが、消息は掴めず、現在も逃走中。
そしてメンバーの中で唯一一度も逮捕されることなく現在も逃走を続けているのが、桐島聡です。
以上の3名については現在でも行方がつかめておらず、生死も不明となっています。
そしてそのほかのメンバーですが、大道寺将司、片岡利明の2名は死刑が確定し、大道寺は68歳の時に東京拘置所で病死し、片岡は現在も収監されています。
そのほかのメンバーもそれぞれ懲役刑となりました。
多くの死者を出しながら、3名もの逃亡者を出してしまうという後味の悪い事件となってしまいましたが、こうして世間を震撼させた連続爆破事件は幕を閉じたのです。