狭山事件は、「女子高生誘拐」「殺人」「死体遺棄」「部落差別」「冤罪」など、ショッキングなキーワードがつきまとう事件。
犯人は逮捕され、裁判上では一応の解決が済んだとされていますが、いまだ解明されない謎が多いことでも有名です。
事件当時よりも、その後に出た死人の数のほうが多いという物語の背景には、いったい何があったのでしょうか。
狭山事件|関係者が次々と謎の死をむかえた殺人事件
事件の被害者となったのは、埼玉県狭山(さやま)市に住む、高校1年の女子生徒、中田善枝さん(16歳)。
裕福な農家の四女で、父親のほか(母親は他界)、3人の男兄弟と、3人の姉妹がいました。
犯行が起こったのは、1963年5月1日のこと。
奇しくも善枝さんの誕生日と同日だったため、自宅では誕生祝いの準備をしながら、家族が帰りを待ちわびていたと言います。
しかし、善枝さんが家族から祝いの言葉を聞くことは、永遠にありませんでした。
学校の授業が終わった午後3時30分ごろ、自転車に乗って帰路につく姿が、元気な善枝さんが目撃された最後だったのです。
午後6時をまわっても帰宅しない善枝さん。
さすがに遅すぎると、長男・中田健治(25歳)さんが学校まで探しにいきますが、生徒は全員下校済みでした。
「行き違いとなったのかも」そう思い直して、午後7時30分ごろに自宅へと戻りますが、やはり善枝さんの姿はありませんでした。
家族が異変に気がついたのは、午後7時40分のこと。
長男・健治さんの帰宅から10分の間に、玄関のガラス戸に1枚の封筒が差し込まれていたのです。
封筒の中身は脅迫状。
誤字ばかりの解読しにくい文面の手紙が、善枝さんの生徒手帳とともに入っていました。
原文
少時このかみにツツんでこい
子供の命がほ知かたら4月29日五月2日の夜12時に、
金二十万円女の人がもツて前さのヤの門のところにいろ。
友だちが車出いくからその人にわたせ。
時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。一
刑札には名知たら小供は死。
もし車出でいツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら
子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。
もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら
子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける、
くりか江す 刑札にはなすな。気んじょの人にもはなすな
子供死出死まう。
もし金をとりにいツて、ちがう人がいたら
そのままかえてきて、こどもわころしてヤる。
脅迫状の表記が間違いだらけであったのは、犯人に学がなかったためか、捜査を撹乱させるためかは定かではありませんでした。
当時の警察は、識字能力のない者が作成したという見解を示していたようです。
文章を分かりやすくまとめると、以下のように解釈できます。
- 5月2日の夜12時に金の受け渡しを要求している。
- 金額は20万円である。
- 金を持ってくるのは女の人。
- 場所は佐野屋の門(市内にある佐野屋酒店のことと思われる)。
- 友人が車で受け取りに行く。
- 約束の時間に遅れたら子供は殺す。
- 警察に連絡しても殺す。
- 受け取りに行った友人が帰ってこなければ、西武園の池で子供が死んでいる。
- 金を受け取った友人が帰ってくれば、子供は車で返す。
- 誘拐のことを誰かに話せば子供は殺す。
- 金を取りに行って違う人がいても子供は殺す。
なお、脅迫状の頭にあった「少時」は宛名と思われますが、誰のことを示すのかは不明のままです。
脅迫状を読んだあとの家族の行動は、素早いものでした。
誘拐のことは、誰にも知らせるなという旨の文章があったにも関わらず、近隣に住む親戚にも知らせ、15分後には警察にも届けて出ていたのです。
また、不思議なことに、被害者の善枝さんが乗っていた自転車も、庭の自転車置場に返還されていました。
犯人には、脅迫状を届けるついでに、自転車を戻すほどの余裕があったということなのでしょうか。
金の受け渡し
金の受け渡しは、二日続けて行われることになりました。
理由としては、指定された日時の「5月2日の夜12時」が、「5月2日の午前0時」とも解釈できるためでした。
金を運ぶのは、善枝さんの姉である次女の登美恵さん(23歳)。
母親は他界しており、他の姉妹は東京在住であったため、白羽の矢が立ちました。
まず、初日の5月1日の23時40分に、約束の場所・佐野屋酒店へとおもむきます。
持参する金は、警察が準備した偽造紙幣。
周囲には当然、警察の人間が張り込んでいます。
しかし、午前0時半まで待っても、受取人らしき人影は見当たらず、そのまま引き揚げることに。
続く、5月2日。
同じように、佐野屋酒店の前に佇む登美恵さんのもとに、一人の男が近寄りました。
このとき登美恵さんは、男と言葉を交わしますが、とつぜん「警察に知らせただろう、近くに見張りがいる」と告げ、男は走って逃げていってしまいました。
この夜、動員されていた警官の数は40名。
まんまと取り逃がしてしまいます。
脅迫状にあった「車で行く」の言葉を重視し、車道中心の配置となっていたのがアダとなったのです。
また、男の足も早く、登美恵さんの近くにいた警官は年配の者が多かったことも逃亡を許してしまった理由の一つでした。
この大失態に、警察に対する世間の風当たりが一気に強まります。
翌5月3日は、失敗を取り戻すべく早朝から付近の調査が行われ、男の足跡らしきものを佐野屋近くの畑で発見。
すぐに警察犬による追跡が始まりました。
しかし、途中までの足取りを辿るも、川の付近で臭いが途絶えてしまいます。
警察犬による犯人の特定は不可能となり、追跡は中止されました。
しかし、臭いが途絶えた付近は、のちに容疑者を洗い出す大きな手がかりとなります。
川の近くにあったのは、「石田養豚場」。
この場所に逃げ込める人間が、容疑者の候補として警察にマークされていきました。
遺体で発見された善枝さん
5月4日10時半、恐れていたことが現実となります。
雑木林から畑へと続く道で、埋められていた善枝さんが発見されたのです。
死後2~3日は経過していたことから、初日の受け渡し時の直後に殺された可能性も考えられました。
発見時の姿は、後ろ手に縛られたうつ伏せ状態。
目隠しもされており、着衣の乱れなども認められました。
検死の結果、死因は絞殺と判明。
幅広の布のようなもので、首を締められたものと判断されました。
また、生前に性交渉を行った痕跡があり、体内から検出された精液から、B型の男性のものであることが分かりました。
しかし、合意のうえのものなのか、強姦された結果によるものなのかは、警察側と弁護側では意見が割れることに。
善枝さんの身体に、抵抗による傷が少なかったことが原因とされています。
遺体発見から1週間後に、近隣の住人が、現場から120メートルほど離れた場所で1本のスコップが放置されているのを発見します。
連絡を受けた警察が、付着していた土を分析したところ、遺体が埋められていた場所の土と合致。
スコップの出処を辿ると、「石田養豚場」で使用されていたものと判明します。
養豚場側は、取り調べに対し、何者かに盗み出されたものだと主張。
しかし、経営者一族が被差別部落の出身であることに加えて、従業員として多くの部落関係者が出入りしていたことから、捜査の目は、石田養豚場に集中していきます。
被差別部落への差別解消を目的とした、同和対策事業が国会で成立するのは、1969年のこと。
事件当時の1963年は、部落出身者への風当たりが、相当強いものだったのでしょう。
厳しい追求が行われたこの事件は、後に、部落差別問題としても大きな波紋を呼び起こすことになるのです。
養豚場の関係者を逮捕
石田養豚場をマークした警察は、石川一雄(24歳)という男を、最有力の容疑者として絞りこみました。
石川には、以下のような条件が揃っていたのです。
- 被差別部落の出身者で、養豚場の元従業員であった
- 遺体が発見された現場近くに済んでいた
- 血液型がB型だった
- 筆跡が脅迫状と一致していた
- 金の受け渡しで畑に残っていた足跡のサイズが一致していた
- 数年前に起きた誘拐事件に異様に興味を示していた
警察は、石川の捜査を本格化するために、5月23日に別件逮捕に踏み切ります。
ケンカと窃盗の容疑を理由に逮捕し、石川への取り調べを開始。
善枝さんの事件を中心とした事情聴取が行われます。
逮捕の同日には、石川の実家の家宅捜査が行われたことから、いかに警察が犯人として有力視していたかが窺われます。
家の中は当然として、天井裏、屋根、庭までも土を掘り返して調べるという徹底ぶりでした。
しかし、警察の意気込みとはうらはらに、決定的な証拠品は発見されずに終わります。
取り調べの間は、石川は、一貫して容疑を否認。
6月17日に勾留期間が終わり、一旦は釈放となりますが、すぐに殺人容疑で再逮捕され、自宅へ戻ることは叶いませんでした。
その後、2回目の家宅捜査が綿密な時間をかけて実施されますが、やはり不発に終わります。
証拠となる品は見つからないものの、このころになると、取り調べ中の石川の態度に変化が現れました。
連日の厳しい追求による疲労のためか、徐々に自白のような発言をするようになったのです。
未だ発見にいたっていなかった善枝さんの所持品を、地図を作成してまで説明。
地図で示された場所から善枝さんのカバンが発見され、事件は一気に進展することに。
腕時計は他の捨て場所に、万年筆に至っては自宅の鴨居の上に隠したなど、自白をもとに芋づる式に所持品が見つかっていきます。
これだけの自白内容と一致する証拠が見つかったことから、警察は石川一雄以外の犯人はあり得ないという結論にたどり着きます。
浮上し始める冤罪説
数々の証拠品の発見から、石川は、強盗強姦・強姦殺人・死体遺棄などで起訴され、裁判が始まります。
開始当初は、石川が素直に犯行を認めていたため、スムーズに判決が出るかと思われました。
しかし、徐々に矛盾点が指摘されるようになり、さまざまな議論を醸していきます。
カバンに関する矛盾
カバンの捨て場所の地図は、警察の指示によって見本を写したものだと判明。
石川の筆跡ではあるものの、証拠品としての効力は無くなりました。
また、発見されたカバン自体も、善枝さんの物ではないことが、父親の証言から明らかになりました。
腕時計に関する矛盾
腕時計も、善枝さんが愛用していたものとは、モデルが異なっていることが分かりました。
同じシチズン製のものではありましたが、発見されたのはシチズン・ペット。
善枝さんの時計は、シチズン・コニーでした。
万年筆に関する矛盾
さらに、万年筆についても、疑問が残ります。
再三の念入りな家宅捜査で発見されなかったものが、自白を聞いたとはいえ、あっさりと鴨居の上から見つかっているのです。
発見場所を再検証してみると、目をやっただけで、万年筆の存在が分かる場所だったと言われています。
また、発見された万年筆のペン先に、使用の後が認められなかったこと。
善枝さんのノートに書かれているインクとは、色が異なっている点なども指摘されています。
筆跡に関する矛盾
脅迫状の文字と一致すると判断されていた石川の筆跡にも、疑問の声があがります。
そもそも、被差別部落で育った石川の文字を書く能力は低く、漢字を多用した文章を書くことは難しかったと考えられています。
そこで、さらに細かい筆跡鑑定を実施。
句読点や文章構成の特徴などを検証した結果、学習院大学の教授および、京都市教育委員会は、別人のものであると判断します。
女子高生の殺人というショッキングな事件内容に加えて、次々と浮上する事件の謎に、数多くの人が興味を示していきます。
事件の真相を解き明かそうというジャーナリスト、専門的な見解を示す著名人。
部落解放同盟のメンバーにとっても、無関心ではいられない事件でした。
有力であったはずの証拠品に突きつけられる矛盾点。
脅迫状や、善枝さんの所持品には石川の指紋がついていなかったことも相まって、冤罪説が囁かれるようになっていきます。
その影響は大きく、石川の無実を信じた支援者たちが、無罪を主張する動きを見せ始めたのです。
狭山事件 裁判の結果は
1963年9月4日に、浦和地裁で初公判が行われます。
一審においての石川は、犯行を全面的に認めており、翌年の3月11日に死刑判決を言い渡されます。
しかし、ここで石川は控訴。
東京高等裁判所で控訴審が行われることになります。
控訴審では、証言を一転させ、取り調べの強引さを訴えます。
犯行を認めていた背景には、取り調べに疲れ果てていた状態で、「自白すれば10年で出られる」という刑事の言葉があったからと話しています。
1974年10月31日には、無期懲役の判決が出されます。
弁護団は上告しますが、1977年8月9日に棄却。
刑が確定し、千葉刑務所へと収容されていきます。
そして、長い年月を経て、1997年12月21日に仮出所。
実に、31年ぶりに、外の世界へと出てきました。
石川一雄さんの無罪の主張は、出所後も続いています。
狭山事件後 続く関係者の死
狭山事件をさらにミステリアスな事件としたのが、事件発生後から、延々と続いた関係者の死です。
事件そのもので犠牲となったのは、中田善枝さんただ一人ですが、事件後に亡くなった人の数は、述べ6人。
いずれの関係者も、原因不明の死を迎えているのです。
あまりにも衝撃的な人数と死因のため、多くの推測がなされ、少なくない数の書籍が発行されているほどです。
ある本では真犯人説を、別の本では共犯者説や陰謀説を説きながら、狭山事件への真相へ迫ろうとしてきました。
第1の死者:奥富玄二
事件の関係者で最初に死を迎えたのが、奥富玄二さん。
中田善枝さんの実家である農家で、元使用人として住み込みで働いていた男性。
被害者とは面識があり、B型でした。
また、脅迫状の文字と、非常によく似た筆跡だったと言われています。
※某新聞記事の写真です。今は亡くなられた方なので狭山事件写真集などにも掲載されていますが、疑いがかけられてすぐ新聞に顔写真を載せるというのはどうなんでしょうか。
善枝さんの遺体発見の2日後に、農薬を飲んで井戸に飛び込み死亡しました。
新居を建てた直後で、翌日には結婚を控えていた人物の、とつぜんの自殺でした。
第2の死者:田中昇
田中昇さんは石川一雄さんの競輪仲間であった男性。
石川さんが逮捕された直後に、3人組の不審者を目撃したという情報を提供しています。
しかし、証言をしながらも、5月11日に包丁で胸を刺し自殺。
警察に共犯扱いをされ、思い悩んでいたと言われています。
第3の死者:中田登美恵
被害者・善枝さんの姉(中田家の次女)。
誘拐の直後に、金の受け渡しに赴いた人物。
1964年7月11日に、農薬を飲んで自殺しています。
この4ヶ月ほど前、石川さんは裁判で死刑判決を言い渡されていますが、その結果にショックを受けていたとされています。
精神的に追い込まれての自殺、という見解でした。
第4の死者:石田登利造
石川一雄さんが務めていた石田養豚場の経営者の、兄にあたる男性。
事件当時は、養豚場の弟のもとで働いていました。
1966年10月24日に、西武新宿線の入曽駅と入間川駅の間にある踏切で、電車にひかれて死亡。
警察では、事故ではなく、自殺の可能性が高いと判断されています。
第5の死者:中田喜代治
被害者・善枝さんの兄(中田家の次男)にあたる男性。
事件から14年後の1977年10月4日に、首吊り自殺をしています。
兄弟のうち、1名が殺人の被害者、2名が自殺という結果に。
中華料理店を経営していましたが、赤字が続いていたことを苦にしての自殺という見方がされました。
ちょうど、石川さんが無期懲役の確定を受け、刑務所に服役した直後のできごと。
第6の死者:事件の再調査をしていたルポライター
「ドキュメント狭山事件」として取材を行っていた男性。
善枝さんの兄が自殺した同年の12月19日に、何者かに襲われ、2日後に死亡。
死因は、暴行による頭蓋骨の陥没と骨折でしたが、なぜ襲われたのかは謎のままとなっています。
狭山事件真相への見解はさまざま
石川一雄さんの「有罪」で、一応の終息を迎えた狭山事件。
しかし、石川さん自身が出所後も無罪を主張していること、いまだ根強い冤罪説が残っていることも事実です。
さらに、6人もの関係者が事件後に死亡するという、異様な展開。
謎に魅せられ、真相を解明しようとアプローチする人間は、後を絶ちません。
特集番組、映画、書籍など、さまざまな媒体を介して、独自の見解が発表されています。
冤罪に焦点をあて、真犯人を推理するものでは、「善枝さん一家に怨恨を持つ者」「善枝さんの担任教師」「元使用人」など、十人十色の犯人像が。
中でも、最も刺激的かつ意外な人物を真犯人として挙げているのが、「犯人狭山事件より(1990)」と「狭山事件の真犯人(2005)」の著者・殿岡駿星(とのおかしゅんせい)です。
※以下は真相追求するものではありません。謎の多い狭山事件を題材にしたフィクションと捉えてください。
狭山事件真犯人は実の兄?
殿岡氏は、真犯人は「善枝さんの長兄・中田健治さん」という見解を著書で示しています。
善枝さんの事件は、身代金目的の誘拐殺人を装った、まったく別の事件だというのです。
犯行の動機は、近親相姦の関係を隠蔽すること。
つまり、善枝さんと健治さんの間には肉体関係があり、事実の発覚を防ぐことが目的だったという推理です。
善枝さんの長兄・健治さんといえば、誘拐事件当日に帰宅が遅いことを心配し、善枝さんを学校まで探しに行った人物。
脅迫状の、発見者でもあります。
中田健治真犯人説の根拠として、以下のことが挙げられています。
脅迫状の発見状況
1988年に発行された「無実の獄25年狭山事件写真集」を参考にすると、善枝さん宅の玄関はガラス戸であったことが分かります。
誘拐事件当日は、家族の誰もが、善枝さんの帰宅を待ちわびて玄関を気にしていた状況でした。
ガラス戸からは外の様子が丸見え。
敷地内に人が入れば、すぐに気づくはずなのです。
いかに犯人は家族の目をすり抜け、玄関に封筒を挟み、善枝さんの自転車を返却したのか・・・
脅迫状発見の直前に自宅に戻ってきた長兄であれば、誰にも怪しまれることなく、実行できるのです。
また、警察への届け出も、脅迫状発見の直後に行っています。
「誘拐のことを誰かに話せば殺す」と記されていたのに、なぜ即断できたのか・・・
誘拐事件として処理されるよう、仕向けたかったからなのでしょうか。
時間と受け渡し人の指定
脅迫状で指定された「5月2日の夜12時」という時間。
5月1日の夜とも、5月2日の夜ともとれる曖昧さです。
あえて、どちらともとれる時間を記し、初日の夜は警察の動向を確認するための予行演習をしていた可能性があります。
被害者の兄という立場から、間近で様子を観察し、逃走経路を練っていたのかもしれません。
さらに、金の受け渡しに「女」を指定することで、長兄である自分に受け渡し役が回ってくるのを防いだと推測されます。
次女・登美恵さんの自殺
金の受け渡し役を務めた善枝さんの姉・登美恵さんは、誘拐事件の翌年に、原因不明の自殺を遂げています。
一説では、一審の石川さんの死刑判決に、相当なショックを受けていたと言われる人物です。
実は長兄・健治さんが真犯人であることを知っており、濡れ衣から死刑判決を言い渡された石川さんに対して、良心の呵責に苛まれていたのだとしたら・・・
真相を公表できない罪の意識に耐えかねての自殺だったのかもしれません。
殿岡氏は、以上のような推測の他に、長兄・中田健治さん宛てに事件解明に関する質問状を送るといった行動にも出ています。
これに対して、中田健治さんからは「設問にお答えするとは出来ない」との返事が来たと言われています。
※これらはあくまである著書に記された推理です。このサイトで真犯人を追求するようなものでも、関係者を貶めるものでもありません。「それほど謎に包まれた事件であった」とご理解くださいませ。
狭山事件 まとめ
事件発生から50年以上が過ぎてもなお、熱い議論が交わされる狭山事件の真相。
殿岡氏の真犯人の主張に対して、「警察が張り込んでいたので長兄が遺体を埋めに行く隙もなかった」という反論も存在します。
いつの日か、誰もが納得する真相が公開される時が来るかもしれません。
真犯人が見つからなくとも、もし石川一雄さんが冤罪だったとしたらそれを証明できる日が来ることを願います。