一癖も二癖もある明治維新の立役者たち。
その中でなんと言っても好感度が高いのは薩摩藩士西郷隆盛です。
戊辰戦争では庄内藩と戦いましたが、西郷による戦後処理が人間味のあるものだったということで、現在でも庄内では彼の絵を飾っている家庭が多いと聞きます。
その西郷隆盛は、維新後の不満士族の要請を断り切れず、明治10年(1877年)起こった西南戦争の盟主となり、政府軍と戦いましたが、敗れました。
故郷の鹿児島の城山で自刃したというのが通説ではありますが、実は生き延びたのだという生存説は当時から根強く噂されていたのです。
そんな中、西南戦争から14年も経った明治24年3月31日発刊の東京日日新聞にとんでもない記事が載ったのです。
題名は「西郷隆盛がシベリアで存命中」
城山で自刃したはずの西郷は仲間達と共にロシアへ逃れていたというのです。
時を同じくして、全国各地の新聞にも
「西郷隆盛は城山では死なず、シベリアでロシア軍の訓練をしているのだ」
「朝鮮に亡命した」
「インドに身を隠して暮らしていて、天皇のお招きで帰ってくるはずだ」
などといった英雄不死伝説が日本国内で騒がれだしたことが発端となり、大津事件が起こる遠因となってしまったのです。
大津事件
ロシア帝国ニコライ皇太子が日本にやって来たのは1891年(明治24年)のことでした。
シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するために、お召艦「パーミャチ・アゾーヴァ」を含めたロシア帝国海軍の艦隊を率いてウラジオストクに向かう途中に訪問したのです。
ニコライ皇太子一行は長崎と鹿児島に寄港し、その後神戸に上陸し、京都に向かいました。
明治維新後20年は経っていましたが、未だに小国だった日本は政府を挙げてロシア皇太子の訪日の接待に心を配りました。
公式の接待係には皇族である有栖川宮威仁親王(海軍大佐)を任命し、京都では季節外れの五山送り火まで実行するという大騒ぎでした。
次の訪問予定地である横浜、東京でも歓迎の準備は着々と進んでいて、まさに挙国一致体制で臨んだ大行事となるはずでした。
5月11日、ニコライ皇太子は京都から琵琶湖への日帰り観光を楽しみました。
滋賀県庁で昼食を摂った後の帰り道で事件は起こりました。
彼と共に来日していたギリシャのゲオルギオス王子(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗って大津町内を通過中、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵という者が突然サーベルを抜いてニコライ皇太子に斬りかかったのです。
襲撃された皇太子は人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込みましたが、襲撃者は彼を追いかけ、なおも斬りかかろうとしました。
しかし、ギリシャの王子に竹の杖で背中を打たれ、ひるんだところをニコライ皇太子の随伴向畑治三郎(人力車夫)に両足を引き倒さました。
そして、ゲオルギオス王子随伴の人力車夫北賀市市太郎に、自身が落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられたのです。
ニコライ皇太子は右側頭部に9cm近くの傷を負いましたが、幸いなことに命に別状はありませんでした。
公式接待係であった威仁親王は現場に居合わせましたが、野次馬に阻まれたため、ニコライ皇太子に近づく事が出来たのは、犯人の津田三蔵が取り押さえられた後のことだったと言います。
国を挙げての大行事ですから、一般市民の見物人も相当多かったのでしょう。
威仁親王は、留学や軍事視察の経験がありましたので、国際関係には精通していました。
重大な外交問題と判断したため、即座にこの事件は自分のレベルでは解決できないと決断すると、随行員に命じてこの顛末を急いでまとめさせ、東京の明治天皇の元へ電報で上奏したのです。
同時に、ロシア側に日本の誠意を見せるため京都への緊急行幸を要請しました。
これを受けて天皇は直ちに了解し、威仁親王に自分の到着までのニコライ皇太子の身辺警護を命ずるとともに、即刻北白川宮能久親王を見舞い名代のために京都へと派遣したのでした。
日本国内が、この事件の重要性を大きく捉えていたことがよくわかりますね。
西郷隆盛生還説
津田三蔵は安政元年(1854年)12月29日武蔵国(東京都)に生まれました。
西南戦争後に三重県巡査を経て滋賀県巡査になったそうです。
ニコライ皇太子を斬り付けた理由は、前々からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢を快く思っていなかったからと供述したそうです。
彼の行動に西郷生存説が関係してくるのですが、大津事件の前、西南戦争で戦死した西郷隆盛はロシアに逃げ延びていて、ニコライと共に帰って来るというデマがささやかれていたのです。
西南戦争で勲章を授与されていた津田三蔵(西郷の敵側だったわけですね)は、もし西郷が帰還すれば、意趣返しとばかり、自分の勲章が剥奪されるのではないかと気をもんでいたという説もあります。
ニコライ皇太子の訪日が近づくにつれて、「西郷隆盛はロシアで生きていて、ニコライ皇太子と一緒に軍艦で帰国する」という帰国説が全国に広がり、熱中する者も多く出てくるようになりました。
ちなみに、この年には西郷隆盛の銅像が上野に建立されることも決定したのですが、この噂が後押ししたと言われています。
西郷生存説の直接のきっかけは鹿児島新聞に掲載された以下のような投書記事でした。
「西郷隆盛は城山陥落の前々夜に囲みを脱してロシア軍艦に密かに乗り込み、ウラジオストクに上陸し、シベリアに行ってロシア兵を訓練している。黒田清隆が欧州視察の時、その事実を聞き込み、こっそり西郷隆盛に面会して、1891年に日本へ帰る約束をした。その約束をはたすために、ニコライ皇太子とともにロシア軍艦で帰国するのだ」
と具体的なことが書いてありました。
この投書を新聞各紙は連日取り上げたのです。
西郷の帰国に関する見出しが各新聞に躍ったり、明治天皇が「西郷隆盛が帰ってきたら西南戦争に従事した将校らの勲章を剥奪する」と冗談をおっしゃったという記事まで掲載されました。
中には、西郷隆盛を露国で見かけたという親友の話を掲載したり、「西郷隆盛の生死を読者の投票で決めよう」というふざけた懸賞を出した新聞もあったのです。
こんな雰囲気の中ですから、ロシア軍艦が長崎に近づくにつれて日本国内が騒然となっていったのは当然のことでした。
おそらく、津田の焦燥も募っていったことでしょう。
ある新聞社は香港の通信社に西郷隆盛が乗っているかどうかを確認してくれるように頼みこみ、得た回答「乗っていない」を新聞に掲載するほどでした。
西郷隆盛生還説の背景には、軍事的能力に優れた彼がいたら、列強を破って日本が中国大陸に勢力を伸ばし、雄飛できるという国民の期待がありました。
自由民権思想で名高い中江兆民はその著者『自由平等・経綸』の中で西郷隆盛生還説について下記のように述べています。
「人心厭倦のきわみ、虚伝とは知りながら、想像をもって想像をよろこばして、しばらく自らを慰むるにはあらざるか」 (『自由平等・経綸』より)
「民の心が現在の政治に飽きてきたのだろう。だからデマだとわかっていても、想像で喜んで、自分で自分を慰めているのではないだろうか」という意味のようです。
中江兆民は西郷隆盛待望論は今現役で政権を担っている凡庸な政治家に対する強い不満と失望の現れと考えていたのです。
西郷隆盛生還を望む者は一緒に来たはずのロシア皇太子の行く先々で黒山の人だかりを作りました。
いつ、西郷が登場するのか、期待を込めて異国の皇太子を見つめていた者も少なくなかったでしょう。
でも、それが所詮はデマに過ぎないとわかって、この熱気は徐々に下火になっていったのです。
しかしその後も西郷生存説は完全に消えることはありませんでした。
特に対外的な危機、日清戦争・日露戦争の時には、西郷隆盛が現れて参謀として戦争を勝利に導いてくれるという噂が流れました。
それは裏を返せば、国土の広い中国やロシアに対する民衆の不安や恐怖心が強かったということでしょう。
津田三蔵の判決
旧刑法116条(大逆罪の方がわかりやすいですね)は「日本の皇族に対してのみ」適用される法なので、外国の皇族に対する犯罪は全くの想定外でした。
要するに、被害者が外国の皇族・王族であっても、法律上は民間人と全く同じ扱いにせざるを得なかったのです。
つまり外国の皇族に怪我をさせたとしても、それだけで死刑判決は法律上下せなかったということです。
とは言え、津田は死刑にすべきだという意見の裁判官の数は少ないとは言えませんでした。
児島惟謙は当時の大審院院長(現在の最高裁判所長官)でしたが「法治国家である日本国では法は遵守されなければならない」という立場から「刑法に外国皇族に関する規定はない」として、ロシアへの手前、暗に死刑を要求した政府の圧力に反発しました。
ここに「国家か法か」という回答困難な問題が発生してしまったのです。
結局、事件から16日後の5月27日、一般人に対する謀殺未遂罪(旧刑法292条)が適用され、津田に無期徒刑(無期懲役)の判決が下されました。
現代の裁判からするとスピード判決ですが、やはりロシアへのメンツがあったのでしょう。
大津事件~西郷隆盛がシベリアで存命中~津田三蔵とロシア生存説 まとめ
悲劇の英雄を慕い、死んではいないはずだ、きっと生きている、あの英雄がおめおめ死ぬはずはない…
義経に代表される「生き延びた英雄」伝説は枚挙に暇がありません。
西郷生存説がなぜ作られてしまったのか、中江兆民が思った通り、彼以外の維新の功臣があまりにも私利私欲に汚れていると思われたため、悲劇の英雄に対する追慕の念が高まったのでしょう。
「人の価値は棺を覆いて定まる」と言います。
西郷隆盛の価値は、明治維新の群雄の中で最高位だったのではないでしょうか?
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