日本の三大霊場の一つである恐山。
古くから湯治場として知られていましたが、江戸時代に地蔵信仰や祖霊信仰が習合し、霊場として発展しました。
また、「恐山へ行けば死者と再会できる」という言い伝えから、恐山へと赴く「恐山参り」が江戸期に流行。
そこで死者と巡り合った一人の男の話をご紹介します。
死者と再会する場所
青森県の霊場「恐山」、この名称は、一つの山そのものを示すものではありません。
宇曽利(うそり)湖一帯と周囲を取り囲む8つの峰などを含めて「恐山」と呼びます。
効能に優れる温泉があることから、昔から湯治場として知られていました。
また、民間信仰の対象ともなっており、周辺の地域では、「人は死ねばお山(恐山)へ行く」と信じられてきました。
「恐山へ行けば死者と再会できる」という言い伝えもあり、近くの集落には「亡くなった家族や知人と山で出会った」という話が、民話として数多く伝わっています。
そのためか、霊場として発展してきた江戸時代には、死者との再会や霊験あらたかと言われる湯の効能を求めて、大勢の人が恐山へとお参りに赴きました。
恐山周辺には、参拝客を迎えるための旅籠などが立ち並び、なかなかの盛況ぶりであったようです。
これからご紹介するのは、そんな時代に恐山に訪れた一人の男にまつわる民話です。
親と再会した治助の話
江戸時代のこと、参拝客で賑わう恐山を目指し、もくもくと進む者がいました。
名は治助といい、生まれて間もなく両親と死に別れ、ヤクザな身の上となってしまった男です。
博打にのめり込んだことから身上を食いつぶし、同じヤクザ者に追われる日々。
恐山を目指したのも、故人の霊との再会を願う老人しか寄り付かない場所だったためです。
「身を隠すなら、恐山の旅籠ほど便利な場所はない」
そう考えて、とある旅籠に逗留することにしました。
当時の旅籠は相部屋が当たり前で、入れ替わり立ち替わり客の面子が変わります。
治助は、旅籠で何をするでもなく、陰気な雰囲気で酒を飲み、周りの客の話に耳を傾けていました。
相部屋では、客が恐山で再会した故人の話に花を咲かせることが多く、さまざまな話が飛び交います。
「あの世に行くと歳を取らないんですねぇ。あいつ、死んだときのままでしたよ」
「霊が現れたので、思わず端に寄って座る場所を空けてやったら幽霊に笑われてしまいましたよ」
治助は、複雑な心境で、そんな話を聞いていました。
「俺は親の顔さえ知らねぇ、会いたいと思う人間もいねぇ。第一、死んだヤツに再会したからどうだってんだ。気の滅入る旅籠だ。」
来る日も来る日も相部屋の客と故人との思い出話を聞かされ、ほとほと嫌気がさしてきた治助は、とうとう恐山の旅籠を出て行くことを決心します。
ある夏の昼下がりに、出ていくための荷物をまとめていると、一組の夫婦が音もなく部屋に入ってきました。
蒼白い顔の二人は、治助の近くに場所をとり、低い声で話を始めました。
「蝉の声も久しぶりですねぇ」
「あぁ、こちらに戻ってきたのは20年ぶりになるからね」
「もうそんなにも経つのですねぇ・・・あの世では川原石を積んで崩すだけでしたのに」
「仕方がないよ、生まれて間もない子をこちらに置いて来てしまったんだから」
「親として当然の報いなのでしょうねぇ・・・この世に残してあの子は無事でしょうか」
夫婦の会話に驚いた治助は、その場で固まってしまいました。
二人の話は、なおも続きます。
「きっと無事だよ。親がいなくても子は育つと言うだろう」
「生きているといいですがねぇ・・・ちゃんとカタギに育ってくれたでしょうか」
「言っても仕方ないことだよ。さぁ帰ろうか、お前が成長したわが子を見たいというからこちらに来たが、残念だったねぇ」
「私たちの村も家も無くなっていましたし・・・」
「20年も経っているからな。この世のことは諦めて帰るとしよう」
「そうですね、一切を諦めて帰るとしましょうか」
涙を流しながら、語り合う夫婦。
すると、妻の方がふと治助に気づき、静かに問いかけてきました。
「あなた様も、誰か亡くなった方に会いに来たのですか・・・?」
「やめてくれぇ!!」
治助は悲鳴のような声をあげ、裸足のまま旅籠を飛び出すと、そのままどこかへと走り去って行きました。
それ以降、治助の行方を知る者は、誰一人としていなかったそうです。
恐山の民話~ヤクザ者の治助と死者に再会できる霊場~ まとめ
死者と再会できる霊場、恐山にまつわる民話。
治助が旅籠を飛び出したのは、ヤクザ者となった身の上を恥じてのことでしょうか。
あるいは、自分自身がすでにこの世の者ではない可能性に気づいたためでしょうか。