かつての南朝時代、天皇家は「南朝」「北朝」の二つの朝廷が存在していました。
現天皇家は北朝の家系ですが、終戦直後の日本に「南朝の子孫」として「自分こそが正統な天皇である」と主張し世を騒がせた人物が現れました。
後に「熊沢天皇」「大延天皇」などの呼称で知られる、熊沢寛道です。
GHQに訴え出た「自称天皇」
ことの発端は、昭和20年11月に連合国軍総司令部(GHQ)宛に届けられた、一通の嘆願書でした。
差出人は、愛知県名古屋市千種区で雑貨商を営んでいた熊沢寛道氏(当時56歳)。
「我こそは、南朝の正統・天皇である」という訴えが綴られた嘆願書は、GHQから米国の雑誌「ライフ」の記者に渡されることになりました。
その後、1ヶ月間かけて翻訳された嘆願書の内容は、信憑性ありと判断されます。
真偽のほどを確認するために4人のアメリカ人記者とGHQ将校が名古屋に派遣され、12月24日に熊沢氏本人に対する取材が行われました。
空襲で店を失った熊沢氏は、バラック小屋で記者らを出迎え、長時間に渡るインタビューに対応しました。
その内容はセンセーショナルな記事となり、翌21年1月21日発行の米国ライフ誌のトップを飾ることに。
「56歳の商店主がヒロヒトの皇位を請求!」「皇位回復を554年間待ち続けた!」などの煽り文句が踊るものでした。
これを受けて日本の新聞各社も報道を開始。
朝日新聞といった大手の新聞社も、熊沢天皇騒動について記事を掲載しています。
こうして、熊沢天皇ブームが、急激に世間に広まることになったのです。
昭和21年4月23日には、東京の内幸町(旧田村町)の航空開館で講演会が開催されたことを皮切りに、全国的に熊沢天皇の後援会の支部が出来上がっていくこととなります。
講演は盛況を博し、後援会には商科大学の峯間信吉教授らを始め、多くの著名人が名を連ねていました。
この同年に、国民を励ますための昭和天皇の全国巡幸が行われており、昭和21年10月22日には名古屋に行幸していました。
十六弁の菊の紋付羽織をまとった熊沢天皇が、名古屋市矢口国民学校前に乗り付け、天皇との対談を希望するも目的を果たすことはできませんでした。
この巡幸のおりには、天皇の侍従は「あれが熊沢天皇の家です」と、住居を示したと言います。
熊沢天皇は、その後も昭和天皇の巡幸の後を追い、面会と退位を求める行動を繰り返しますが、いずれも拒否されています。
また、昭和天皇の全国巡幸が、各地で熱狂的に歓迎されると同時に、熊沢天皇ブームは置き去りにされることになりました。
昭和26年1月には、東京地裁に「昭和天皇は南朝天皇から不法に皇位を奪い、国民を欺いている。
天皇として不適格である」という訴えを起こしますが、「天皇は裁判権に服さない」として却下されています。
これ以降、熊沢天皇が大きな行動を起こすことはなく、昭和41年に東京都板橋区で生涯を終えます。
熊沢天皇の系譜とは
それぞれの天皇家の系譜を辿ると、北朝は持明院統、南朝は大覚寺統の流れを嗣ぐことが分かります。
北朝の始まりは後嵯峨天皇(88代)の長子の後深草天皇(89代)となり、南朝は次子の亀山天皇(90代)に始まります。
南朝の後醍醐天皇(96代)と、昭和天皇(126代)は、祖先は同じとしますが、厳密には血のつながりはないとされています。
皇位の正当性に関しては、明治憲法において長子相続が明確に規定されたことから、持明院統の流れを持つ北朝側にあります。
また、南朝の系譜に関しては、南北朝時代の衰退の後の1457年に南朝後裔であった自天王が殺害され、三種の神器を北朝側に奪還されたことによって滅亡したものとされています。
以降、天皇位は北朝の系譜となり、その後の南朝の血筋に関しては定かではありません。
自称天皇
熊沢寛道が皇位の正当性を訴えた経緯の背後には、父親である、熊沢大然(ひろしか)の存在があります。
明治41年1月2日に、当時の内大臣に「信雅親王の子孫である」と、南朝の末裔であることを訴えた人物です。
この時には、2年間もの調査が行われ、大然を皇族の一員として認めるとの意見も浮上していました。
しかし、大然は「皇族に加えられる以上序列第一位」と希望する姿勢を貫いていました。
その後の政府は、熊沢家への申し立てに沈黙を保ち続けています。
実際に、熊沢天皇がGHQに訴えを起こした年の衆議院予算会で、石田一松代議士が「熊沢天皇問題は不敬罪になるのではないか」と質問したのに対して、司法大臣は「調査中」と答えるに留まっています。
熊沢天皇騒動~譲位を求めた自称天皇熊沢寛道と明治天皇出生の謎~ まとめ
戦後の日本を騒がし、「自称天皇」の代表格とされる熊沢天皇。
しかし、熊沢家の訴えに対して政府が沈黙を貫いてきたことは、「南朝の末裔である」という主張は信憑性があるのかもしれません。