高校野球記念日は、大正4年(1915)8月18日に「全国高校野球選手権大会」の前身にあたる「第1回全国中等学校優勝野球大会」の開会日です。
これを記念して高校野球記念日と制定されました。
第1回の高校野球は地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、初優勝となったのは京都第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)です。
出場校の増加
大正4年当時の地区予選は大きく分けられた東北、東海、京津、兵庫、関西、山陽、山陰、四国、九州の9地区と春の東京大会で優勝した1校を含めた10校での開催でした。
第40回(1958)は記念大会として47都道府県すべてにおいて地区予選が行われ、第41回(1959)より参加校の多い広大な北海道は「北北海道」と「南北海道」に別れました。
第40回、第45回、第50回、第55回の記念大会では1都道府県から1代表が選出されていましたが、第56回(1974)には北海道同様に参加校の多い東京都が「東東京」と「西東京」に別れました。
60回(1978)以降は、49の地区予選から選ばれた49校によるトーナメント戦となっています。
第80回、第90回、第100回の記念大会では、さらに多くの出場校が参加しています。
阪神甲子園球場
大正4年に開催された「第1回全国中等学校優勝野球大会」当時は、大阪府豊中市の豊中グラウンド(別名:豊中球場)で行われていましたが、大会期間を短縮することで出場校の経費が抑えられるということから、第3回大会から球場を2面設置した兵庫県西宮市の鳴尾運動場(現在の鳴尾球場)に移されました。
第9回大会では次第に人気となった高校野球ですが、球場内外に観客が乱入するという事件があり、本格的な球場が必要となり、甲子園大運動場が建設されました。
第10回(1924)より甲子園大運動場にて開催されるようになりました。
現在の阪神甲子園球場です。
木製バットから金属バットへ
高校野球でもプロ野球同様に第1回大会から木製バットを使用してきました。
1960年代に入ると大本修氏により、「芯が広い」「反発が大きく打球が飛ぶ」「高い耐久性」をもつ金属バットを考案しました。
実は金属バットを考案したのは芝浦工大学長を務めた大本修氏、日本が発祥だったのです。
さて、1960年代に考案された金属バットですが、発売当初は高校野球でも使用不可でした。
高校野球で金属バットの使用許可がでたのは昭和49年(1974)に開催された第56回大会以降です。
金属バットの使用を許可した一番の理由は、耐久性です。
プロ野球では木製バットを使用していますが、よくバットが折れるシーンをみることがあると思います。
高校野球では、プロ野球と違ってあまりお金をかけたくないはずですから、耐久性のある金属バットの許可にいたりました。
他に、プロ野球で利用する阪神甲子園球場という本格的な球場では、高校生はホームランを打つといったことは少なく、飛距離がある金属バットを使用して試合を面白くするという意図があったともいわれています。
高校野球で木製バットを使用していた選手たち
昭和49年(1974)に金属バットが解禁されましたが、中には木製バットを使用する選手もいました。
現在では高校野球といえば金属バットが当たり前です。
しかし、もとは木製バットしか許可されていなかった高校野球ですから、必ず金属バットを使用しなければならないというルールはありません。
金属バットに比べて芯が狭く飛距離の劣る木製バットを使用してもかまわないのです。
篠塚和典
後に読売ジャイアンツに入団した篠塚和典選手です。
金属バットが解禁された昭和49年(1974)の夏に優勝した銚子商業高校の4番バッターだった篠塚和典選手は、高校2年生でありながら4番、三塁手を務めていました。
その篠塚選手は木製バットを使い、決勝では2本塁打という成績を残しています。
柴田亮輔
オリックスへドラフト3位で入団後、ソフトバンクホークスに移籍したプロ野球選手。
最近の高校野球の選手ではめずらしい木製バット使用選手です。
高校野球では愛工大名電(愛知工業大学名電高等学校)で平成16年(2004)に開催された第76回に2年生の時に準優勝しています。
翌年17年(2005)には春のセンバツに愛工大名電の主将として優勝に貢献しています。
この年の夏の甲子園では一回戦で敗退したものの、木製バットを使う高校球児に驚いたのではないでしょうか。
高校野球記念日|木製バットから金属バット解禁へ まとめ
「全国高校野球選手権大会」の第1回開会日にあたる高校野球記念日ですが、大正4年から100年余つづく歴史の中で様々な移り変わりとドラマがあったことは言うまでもありませんね。
今年は、木製バットを使っている選手はいないかなと、ついつい探してみたくなりますね。