応永4年(1397年)に足利義満によって建立された鹿苑寺。
舎利殿を含めた寺院全体は、一般的には金閣寺の通称で知られています。
その庭園内に佇む、国宝の舎利殿・金閣が焼失した事件がありました。
昭和25年(1950年)に起こった「金閣寺放火事件」です。
金閣寺放火事件の経緯
京都市北区に佇む金閣寺の焼失。
それは、戦火によるものでも過失によるものでもありませんでした。
室町時代前期の北山地区を代表する様式であった美しい建物は、ある一人の徒弟僧の手によって灰と化してしまったのです。
出火が確認されたのは、昭和25(1950)年7月2日午前3時頃のこと。
通報を受けた消防隊が駆けつけたときには、舎利殿から激しい炎が噴出しており、手のほどこしようがないまま全焼となりました。
3層構造の舎利殿内に納められていた、足利義満の木像、運慶作の観音菩薩、阿弥陀如来像、経巻や仏教本といった貴重な国宝の数々も灰となり失われることになった事件です。
夜明けを待って行われた現場検証で、鎮火した焼け跡から蚊帳のつり手や布団生地が発見され、放火の疑いが浮上。
すぐに西陣警察署に連絡が入り、調査が行われることとなりました。
その後、警察が寺院の関係者に事情聴取を行ったところ、一人の徒弟僧の行方が分からないことが判明します。
行方不明の徒弟僧の名前は林養賢、当時21歳の若者でした。
庫裡にある林養賢の部屋を調べたところ蚊帳や布団が無かったことから、放火の最有力容疑者として行方が捜索されることになります。
警察と消防団が近隣一帯の捜索を行い、同日の午後4時頃に、金閣寺の裏にある左大文字山でうずくまっている林養賢容疑者を発見します。
火を放った後に山へ逃走し、睡眠薬と短刀の一突きで自殺を図るも、死にきれずにいたのです。
逮捕後の林養賢容疑者は、取り調べに対して素直に犯行を認め、懲役7年の実刑判決を受けました。
なぜ放火に至ったのか
昭和4年8月19日に、京都府舞鶴市成生で、西徳寺の住職・林道源の長男として生まれた林養賢。
西徳寺は、檀家数がわずか22戸という小さな寺で、経済的にも苦しい少年時代をおくっていました。
また、生まれつきの吃音でコンプレックスを抱えていました。
結核を患っていた父親の道源氏は、43歳で死去。
その直前に、伝手を頼りに金閣寺住職の村上慈海氏のもとへと、養賢を弟子入りさせます。
昭和18年3月18日に得度式が行われ、正式に金閣寺の徒弟僧となったのです。
その後、病気療養のために一時、実家に戻ることなどもありましたが、終戦間もなく再び金閣寺に戻ります。
中学の卒業も果たし、大谷大学へと進学。
犯行当時は大学3年として在籍していましたが、入学当初と比較すると、成績は芳しくなく登校することもなくなっていました。
その理由として、金閣寺の禅寺としてのあり方と、その実態に対しての矛盾に悩んでいたことが挙げられます。
禅寺の修行は金銭欲などを持たず自身を無にするもの、その一方で、観光客からの拝観料で潤沢な収入を得る寺。
養賢の目には、禅の修行をないがしろにし、拝金主義となった金閣寺が映ったのかもしれません。
また、得度を授かった徒弟僧よりも、観光客の管理や運営に携わる事務方が大切にされる事実に嫌気がさしていたとも言われています。
こうした矛盾に加え、父親と同じ病を持つことへの悩み、息子の出世を唯一の楽しみとし過剰な期待を持つ母親への重圧など、さまざまな葛藤があったようです。
金閣寺放火事件で逮捕された養賢は、「世間を騒がせたかった」、「社会への復讐のため」といった動機を供述しています。
作家の三島由紀夫が発表した小説「金閣寺」は、養賢をモデルとしています。
事件に対する三島の見解は、「自身の吃音や不幸なお遺体に対して、金閣寺における日の憧れと反感を抱いて放火した」というものでした。
また、同じ金閣寺放火事件を題材とした「五番町夕霧楼」や「金閣炎上」を執筆した水上勉は、「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」という見解を述べています。
事件後、懲役7年の実刑判決を受けた養賢は、昭和30年10月30日に恩赦で出所しますが、結核と重度の精神障害で京都府立洛南病院に入院。
翌31年3月7日に肺結核のため死亡しました。
息子の犯行後、汽車から飛び降り自殺した母親と共に、青葉山麓の安岡部落の墓地に埋葬されています。
まとめ
自身を取り巻くさまざまな葛藤から、金閣寺放火に至った若き徒弟僧。
彼が出所した日は、奇しくも、再建された金閣の落慶法要から20日後のことだったと言います。