生まれ変わりというものがあると思いますか?
江戸時代、自分は輪廻転生をしたと告白した人物がいます。
その名前は小谷田勝五郎(こやた かつごろう)。
国学者として名高い平田篤胤の代表作、『勝五郎再生記聞』のモデルになった人物として知られています。
小谷田勝五郎
小谷田勝五郎は、武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)の農家、小谷田源蔵の息子として1814年(文化11年)に生まれました。
8歳になった1822年(文政5年)のある夜、家族に「自分は前は程久保村(ほどくぼむら・現日野市程久保)の藤蔵(とうぞう)という子どもで、6歳の時に疱瘡で亡くなった」と突然言いだし、亡くなってあの世に行ってから、生まれ変わるまでのことを語りだしたのです。
彼の話の内容は、実際に程久保村で起こったことばかりでした。
行ったこともない村の出来事を知っていたということで、その当時大騒ぎとなって、噂は江戸まで知れ渡ることになったのです。
勝五郎の転生
現在の八王子市にあたる「中野村」という小さな村に住んでいた百姓「源蔵」の息子「勝五郎」
この少年はある日、添い寝をしていた祖母に、突然次のようなことを話し始めたのです。
「僕の本当の名前は藤蔵です。僕は昔、程久保村に住んでいました。お父さんの名前は久兵ェ、お母さんの名前はお志津といいました。お父さんは僕が生まれてすぐに死んでしまいました。僕も5歳で死んじゃったので、この家のお母さんのお腹の中に入って、またこの世に生まれてきたんです。」
勝五郎少年はこの言葉を皮切りに、死後の世界について詳しく話し始めました。
最初は子どもの言うことと、祖母も話半分に聞いていたのですが、孫の話があまりにも具体的なのでさすがに気になったのでしょう、村の集まりの時に他の住民にも孫の話を打ち明けてみたそうです。
いろいろな話を聞き合わせた人がいたようで、その結果、勝五郎の話は15年ほど前の程久保村の状況に非常に似ていることが判明したのでした。
程久保村の村人もわざわざ確かめに来てくれたそうです。
結論として、勝五郎少年はもと藤蔵であったとしか考えられないような事実が次々と明らかになったのでした。
勝五郎は全然行ったこともないはずの程久保村の藤蔵の家の中の様子も詳細に知っていました。
また、勝五郎少年が実際に程久保村に行ったときには、藤蔵が死んでから出来た建物や木、回りの様子について
「あれは前にはありませんでした。あそこが変わった。」
などと言い当てたりもしたのです。
藤蔵は文化4年2月4日に死亡しました。
お墓は土方歳三の菩提寺として有名な高幡不動にあります。
勝五郎は明治に入った2年12月4日に死亡して、その墓は八王子の永林寺にあります。
二人のお墓は今でも存在しています。
平田篤胤
江戸時代の国学者・平田篤胤は羽前秋田郡(秋田市)出身。
妻子に相次いで先だたれた彼は、死後の世界などの研究に心ひかれていたと言われています。
生まれ変わりだという勝五郎の噂を聞き、興味を持った平田は1823年(文政6年)4月、少年を自分の屋敷に招きました。
なかなか心を開こうとせず、話したがらない少年をなだめながら、何とか聞き取りをしたようです。
ぽつぽつと話す田舎の少年の話を少しずつ理解し、その内容を同年7月に「勝五郎再生記聞」という書物にまとめました。
2年後の1825年(文政8年)、平田は湯島天神の男坂下にあった自分が経営する国学塾「気吹社」に勝五郎を入門させ、門人の一人に加えました。
勝五郎が気吹社にいたのはわずか1年ぐらいだったようですが、身分制度が厳しく分けられていた江戸時代に、百姓の子が学問を学べる機会はほとんど無かったはずですから、平田個人の思い入れによる生まれ変わりが理由だとしても、勝五郎少年は他の同世代の少年とは段違いの経験をしたことになります。
勝五郎は気吹社を卒業後は、父源蔵とともに農業に従事し、その旁ら目籠仲買業を引き継ぎました。一般の平凡な生活を中野村で送ったと言われています。
1869年(明治2年)、輪廻転生を経験したという人物は55歳で死去しました。
平田篤胤の『勝五郎再生記聞』は当時の上皇など宮廷人には興味を持って読まれましたが、その一方、幕府のお咎めを受け、著述を禁止された平田は失意のままに故郷で亡くなりました。
勝五郎の没後しばらく経過した1897年(明治30年)、ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、「勝五郎の転生」を納めた随想集『仏の畠の落穂』を著しました。
この書物はロンドンとボストンで発売されました。
小谷田勝五郎~平田篤胤が実証した輪廻転生「勝五郎再生記聞」~ まとめ
「私の前世は○○」「あなたの前世は○○」などという前世ブームが世間を席巻した時代がありました。
前世の記憶が残っていたら、というのは誰もが一度は考えることかも知れません。
しかし、前世と現世の記憶が同時に頭にあったら…
自分は誰なのだろう?
と自分の存在が信じられなくなってしまうのではないでしょうか?
前世の記憶があって、それがどんなに幸せであっても、不幸であっても、現世を生きるしかないのではないかと思います。