正月には欠かせない行事となった箱根駅伝。
1月2、3日の二日間をかけて東京の大手町と箱根・芦ノ湖間の往復合計10区間(217.9Km)を競い合う学生長距離界最大の駅伝競走です。
箱根駅伝の本番に出場できるのは、関東学連加盟大学の中でも前大会にてシード権を獲得した10校と予選会を勝ち抜いた9校、それに選抜を加えた20校というかなりのハイレベルな大会です。
この大会の生みの親と言われる人物について紹介しましょう。
この人は同時におよそ55年かかってゴールしたオリンピック選手でもあるのです。
消えた日本人~金栗四三~
1891年(明治2年)熊本県に生まれた金栗四三(かなぐりしそう)は1911年、翌年に開催されるストックホルムオリンピック(1912年5月5日~7月27日)の予選会に参加しました。
愛用の白足袋が途中で破れたというアクシデントはありましたが、当時の世界記録を27分も縮める2時間32分45秒というすばらしい記録で優勝し、オリンピック出場が決まりました。
しかし、肝心のオリンピック本番では、思いも寄らない災難に見舞われてしまったのです。
予選会での失敗から足袋に改良を施し、裏地にゴムを貼付けた特製の「マラソン足袋」で出場したのですが、日本とは違う石畳のコースに加え、北欧とは言え40度を超える猛暑に体力を奪われ、日射病にかかり意識を失ってコース上に倒れ込んでしまったのでした。
急病人だと思った近くの農家の人に介抱された金栗が目を覚ましたのは翌朝。
既に競技は終わっていました。
日本国民の期待を一身に背負って出場したのに、何の成績も上げられないどころか、試合にも参加できなかったという深い自責の念から、彼はオリンピック委員には棄権の申請などはしないで、静かに日本へ帰ってきました。
後々この行動は「試合中に消えた日本人」として騒ぎになります。
金栗は大切なレースで倒れてしまいましたが、原因は彼自身のせいだけではありませんでした。
当時ストックホルムまでの移動には船と列車を使っても20日以上の長旅でした。
また、和食などは用意されるはずもなく、慣れない洋風の食事や気候の違い(白夜だったので睡眠時間が取れなかったという話もあります)
もっと大変だったのは、大会当日の競技場までの移動手段です。
試合前に迎えに来るはずだった車が連絡ミスで現れなかったため、なんと走って競技場まで行かねばならないという不運が重なったのでした。
ストックホルムの後も、金栗四三はアントワープオリンピックとパリオリンピックの二つに出場していますが、残念ながら成績は良くなかったのです。
ストックホルムオリンピック マラソンの様子が動画でアップされていました。
東海道駅伝徒歩競争
1917年(大正6年)明治維新からちょうど半世紀の年、京都から東京への「遷都50周年」を記念して、東京・上野で大博覧会が開かれることになりました。
主催の読売新聞社は博覧会を盛り上げたいと、大マラソン大会を企画したのです。
明治天皇の遷都の道筋とほぼ同じコースを、博覧会開催期間である3日間(4月27日からの3日間)、昼夜かけて走破するという計画でした。
総距離は508キロですが、23区間に分けて、関東組と関西組の東西対抗という形での競争でした。
江戸時代の宿場町を走って荷物を運んだ飛脚にちなんで、この大会は「東海道駅伝徒歩競争」と名付けられたのです。
これが駅伝という競技が誕生した瞬間と言ってよいでしょう。
京都・三条大橋東詰と東京・上野公園の不忍池に「駅伝の歴史ここにはじまる」と刻まれた「駅伝の碑」がありますが、これに由来しています。
トップでゴールしたのは、あの金栗四三でした。
走破記録は41時間44分。
当時の新聞は、日本橋三越や、後に火事で有名になってしまった白木屋デパートの窓から民衆が帽子やハンカチを降って大きな声援を送っていた様子を伝えています。
ゴールがよく見える上野精養軒は一目でも見たいと駆けつけた見物客でごった返していたようです。
このようにして日本初の駅伝「東海道駅伝徒歩競争」は主催者の予想以上に人々の注目を集め、大成功となったのです。
箱根駅伝の始まり
1920年(大正9年)第一回箱根駅伝が開催されました。
大正デモクラシーが叫ばれ、日本が国際連盟に加入した年に、金栗四三の呼びかけによって開かれることになったのです。
第一回の参加校は「早稲田、明治、慶応、東京高等師範(筑波大の前身)」の4校でした。
金栗にはアメリカ大陸横断マラソンの計画があり、その代表選考会を兼ねてこの大会を実施したのです。
1920年2月14日有楽町をスタートし、15日の二日間に亘って学生達が速さを競いました。
当時の箱根山は峠道で整備もされず、ひどいでこぼこ道でした。
また、脇道なども多く、わかりにくい地形でもありました。
それでも地元の人々の協力があり、無事に終わりました。
小田原高校競争部員が伴走してくれたり、青年団の有志が夜にはたき火を持ってコースを誘導してくれるなど、全面的に支援してくれたのです。
箱根駅伝を実現させたきっかけは「東海道駅伝徒歩競争」の成功が大きかったと思われます。
54年と8ヶ月6日5時間32分20秒379
金栗が計画したアメリカ横断マラソンは実現しませんでしたが、彼が生みの親である箱根駅伝は長距離マラソンの登竜門となりました。
特に女子長距離走など日本マラソン界のために多大な貢献を果たしていました。
一方、月日とともに金栗のストックホルムでの失踪事件については人々の記憶から忘れられつつありました。
ところが、ストックホルムオリンピック大会から55年経った1967年(昭和42年)3月、金栗はスウェーデンのオリンピック委員会から、記念式典に招待されることになりました。
オリンピック55周年式典を開催することが決まったので、過去の記録を整理していたところ、まだ競技中になっている日本選手が見つかったというのです。
金栗四三はマラソン競技中「失踪、行方不明」になったままで、本人の棄権の意思が確認されていない以上は「競技続行中」であると判断されたのでした。
スウェーデンのオリンピック委員会が彼を招待してくれたのは、競技中のままの日本選手をゴールさせようという粋な計らいがあったからです。
金栗はすでに75歳になっていましたが、スーツにネクタイ、ロングコート姿で55年前たどり着けなかった競技場をゆっくりと走りました。
そして長い長い競技に終止符を打つべくウィニングポーズでゴールテープを切ったのです。
会場からは溢れんばかりの拍手喝采がわき上がりました。その中、流れたアナウンスは
「日本の金栗、今ゴールしました!タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒379」
失踪し競技中になっていた選手がゴールしたことで、第5回ストックホルムオリンピック大会はようやく大会の全行程を終了することができたのでした。
1983年(昭和58年)11月13日、金栗四三は92歳という大往生でこの世を走り去りました。
オリンピック史上最遅のランナーの残した箱根駅伝という遺産は、正月休みの楽しみの一つでもあり、これからも日本マラソン界を牽引していくことでしょう。
金栗四三~消えた日本人ランナー! まとめ
国を背負って臨んだオリンピック。
その舞台で取り返しのつかない失態を犯した金栗四三。
しかし彼は、その不名誉を補ってあまりあるレガシーを残してくれました。
誰もが一度は聞いたことのある「箱根駅伝」そのコースを走る選手は、失態にもめげず、後進に道を用意してくれた先輩の意志をしっかり受け止めてくれることでしょう。
自分は金栗四三氏のことを昔のTV番組「知ってるつもり」で知りました。確かこの金栗さんの回はギャラクシー賞をもらっている回でしたね。ゲストで武田鉄矢さんと沢口靖子さんが出演されていて沢口さんは金栗さんがストックホルムに再度招かれた時点で大泣きしていました。自分の人生で後悔していることがこんな大きなプレゼントとなって帰ってくるなんて。来年のNHK大河も今から楽しみです。そういえば知ってるつもりの司会をしてた関口宏さんは来年の大河でナビゲーターをする北野武さんからこの金栗さんの話を聞いたそうです。
コメントありがとうございます。
よくご存知ですね。
東京オリンピック開催に先立って、日本人として箱根駅伝の父とも呼ばれる金栗氏を知ることは重要な意義があるのではないでしょうか。