北海道と聞いてイメージするものは、雪まつりにラベンター畑、毛ガニにメロン。
現在でこそ華やかな観光地として名を馳せていますが、そこに至るまでの開拓と開発の歴史も忘れてはいけません。
過酷な時代を忘れさせないと言わんばかりに、不気味な噂が絶えないのは、北海道の常紋トンネル。
そこには、どんな謂れがあるのでしょうか。
常紋トンネルとは
JR北海道の石北本線にある「常紋トンネル」は、1912年の着工から36ヶ月の時間をかけて開通したトンネル。
標高約347mの常紋峠に、全長507mのトンネルを施工するまでには、数多くの困難があったと言われています。
新たなトンネルの完成は、本来は地元住民に歓迎される出来事ですが、常紋トンネルの場合は違いました。
1914年の開通時には
- トンネル近くの山林から人の骨が見つかった
- トンネルの中からうめき声が響いてくる
- 血まみれの男がトンネル内をさまよっている
といった不気味な噂が囁かれ、住民から忌避される場所となっていたのです。
列車の走行においても急停車事故などが頻発。
また、付近の駅に勤務した者はノイローゼとなると言われていました。
その理由を明らかにしたのは、1968年に発生した十勝沖地震でした。
揺れによって崩れたトンネルの壁面の改修工事で、頭蓋骨に損傷のある一体の人骨が見つかったのです。
発見された人骨の数は、一体だけにとどまらず、その後もトンネル付近から次々と見つかりました。
埋められていた人骨は、トンネルの施工作業に従事した「タコ部屋」労働者のもの。
当時の凄惨な労働条件が明るみに出た事件でもありました。
そんないわくつきの常紋トンネルは、現在でも日本屈指の心霊スポットとして名を馳せています。
「タコ部屋」とは
「タコ部屋」とは、主に戦前に行われた、奴隷のような労働環境での仕事のこと。
土木工事や炭鉱などで取り入れられていた制度でした。
あまりの厳しさに逃亡を試みるもの、反抗するものが続出するのですが、管理者による残酷な私刑で抑え込まれていたと言われています。
「タコ部屋」の名称の由来となったのは、タコツボに嵌まったタコのように逃げられないという意味なのだとか。
常紋トンネルの施工も例外ではなく、多くの「タコ部屋」労働者が駆り出されていました。
極寒の気候での重労働、睡眠不足、栄養不足、ビタミン欠乏症による脚気。
果てしない悪条件のもと、労働者たちは倒れていきました。
また、怪我や病気だからといって、治療や休息が許されるはずもなく、工事完了までの36ヶ月の間に、約100人以上の死者が出たともいわれています。
暴力によって限界まで労働を強いられ、死亡すると、そのまま現場に埋められていく・・・今なお、常紋トンネルにうめき声が響く意味が分かるような気がします。
現在では、「タコ部屋」の制度は労働基準法第5条で禁止されていますが、常紋トンネルで無くなった人の無念は、いまだ晴れないのでしょう。
現代の「人柱」の可能性も
常紋トンネルの人骨については、「タコ部屋」労働者の遺体を処理したためと囁かれる反面、「人柱として捧げられたのではないか」と考えるものもいたようです。
「人柱」とは、神に捧げる生贄のこと。
世界中で古くから確認されている風習で、日本においても伝承が残っています。
まだ治水や土木の技術が、未発達であった時代、建築物の完成や強化を願って行われたものです。
その多くは、生きたまま土中や水底に埋められたといわれます。
常紋トンネルの場合も、「人柱」という概念のもと行われたのであれば、生きたまま埋められた労働者の存在もあったのかもしれません。
「タコ部屋」の労働者への見せしめという意味も、あったのかもしれません。
はるか昔の風習だと思われていた「人柱」は、20世紀という、意外に身近な時代まで生き残っていたようです。
北海道の常紋トンネル付近を旅することがあれば、北見市留辺蘂町にある金華駅の高台まで脚を向けてみてはいかがでしょうか。
非業の死をとげた労働者たちを慰霊する目的と、その功績を風化させない目的で「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられています。
まとめ
現代でも有名な心霊スポットである、常紋トンネル。
生贄なのか、過酷な労働制度の犠牲者なのか、いまだ無念を抱えてトンネル内を漂っている存在があるのかもしれません。
正直、このトンネルを通過するさいには、窓の外に目を向ける勇気がありません。