世界で唯一の被爆国として知られている日本ですが、戦争とは全く関係のないところでも原爆の被害を受けていたことがあります。
静岡県の遠洋マグロ漁船であった「第五福竜丸(だいごふくりゅうまる)」は、死の灰を浴びた漁船として、当時のメディアでも大きく報道されました。
太平洋での水爆実験に巻き込まれる
第五福竜丸に被爆事故が起こったのは、終戦から9年すぎた、1954年3月1日のことです。
この当時のアメリカは、太平洋にあるエニウェトク環礁およびビキニ環礁の2ヶ所で、合計6回にも渡る核実験を行っていました。
ビキニ環礁近くの水域を航行中だった第五福竜丸は、その中の1回の水爆実験に巻き込まれ、総員23名の乗組員が全員被爆する事態となりました。
爆心地から150kmほど離れた水域であったにも関わらず、爆破の閃光を目視し、7~8分後には大きな音と衝撃が届いたと言われています。
閃光を確認したのは、午前3時50分。
午前7時ごろになると、白い灰が雨とともに降って来ました。
乗組員は、撤収のための作業を、4~5時間かけて灰の下で行うことになったのです。
実験の二日後には、強い放射線にさらされた乗組員の身体に、放射線による火傷、頭髪の脱毛、歯茎からの出血といった異変が生じてきました。
誰からも救助されることなく、太平洋から約2週間かけて、自力で静岡県に帰港。
乗組員の身体をガイガーカウンターで計測した結果、1.7Gy~6.9Gyとの評価が出され、「急性放射線症」という診断がくだされました。
最終的には、23名中、8人が死亡。
生きながらえた乗組員は、後遺症とともに余生を過ごすこととなりました。
被爆の余波
福竜丸が遠泳漁業から持ち返ったマグロも、もれなく放射線の影響を受けていました。
見た目は、ごく普通の状態ですが、こちらもガイガーカウンターが激しく反応していたのです。
幸いなことに、セリに出される前に回収と廃棄を行うことができましたが、「原爆マグロ」「原子マグロ」という言葉が生まれてしまいます。
静岡県の漁港は、大きな風評被害にさらされることとなりました。
また、1945年には、第五福竜丸で無線長の任についていた人物が、「原爆による犠牲者は私で最後にしてほしい」という言葉を残して、この世を去っています。
この事故に巻き込まれたのは、第五福竜丸だけではありません。
漁船だけでも数百隻にものぼりますし、エニウェトク環礁およびビキニ環礁の近くには、人が住む島も存在していました。
実験に携わった研究者が予測するよりも、遥かに大きな威力を発揮した水爆によって、多くの人間が被害を受けたのです。
第五福竜丸被爆事故|水爆実験に巻き込まれたマグロ漁船 まとめ
被爆事故から60年以上たった今、第五福竜丸は、東京の夢の島公園で当時の姿のまま展示されています。
敗戦直後から現存している木造の漁船は、福竜丸だけとも言われているのです。
死の灰を間近で見た船は、今もなお、第五福竜丸展示館で原爆の恐ろしさを訴えて続けています。