エホバの証人被害者

エホバの証人というのを聞いたことがある方もいるでしょう。
エホバの証人という宗教には色々と問題があるようで、どうも毛嫌いされているようです。

中米に位置するグアテマラ北部のペテン県で日本人女性2人が強盗に襲われ、1人が死亡、もう1人も負傷するという事件がありました。
二人はグアテマラに住む日本人女性でした。
彼女たちは近隣住民との関係も良かったといいますが、日本から布教活動のためにグアテマラに在住していたようです。
その宗教というのが、何かと話題になるエホバの証人です。
そう、エホバの証人は輸血問題などでよく知られるキリスト教系の新宗教です。

 

神の名 「エホバ」

2017年度の報告ではエホバの証人の人数は全世界で845万7107人もいるという決して小さくはない宗教です。
このエホバの証人では主に新約聖書を用いており、キリスト教と同じく唯一神を信仰する宗教ですが、大きな違いは「エホバ」と神の名を呼んでいることです。

ヘブライ語で書かれた旧約聖書の原文には確かに神の名が書かれています。
この神の名をラテン文字に翻訳すると「YHVH」「YHWH」「JHVH」「JHWH」「IHVH」というように数種類ありますが、どれも共通することは4文字であるということと読み方は不明であるということです。

この読み方が不明な神聖四文字「YHVH」「YHWH」という文字から「ヤハウェ」「ヤーウェ」と一般的に呼ばれるようになりました。
日本では明治時代にプロテスタント宣教師たちによって翻訳された日本語訳聖書「明治元訳聖書」に「ヱホバ」と記載されています。
この「ヱホバ」を現代仮名で「エホバ」と表示するようになったといいます。

「ヱ」は本来「ウェ」と発音していましたが、現代語において「ヱ」とカタカナの「エ」に区別はなくなっています。
確かに神聖四文字を無理やり読むと「イェホバ」や「ウェホバ」と読めないこともないですね。

 

毛嫌いされるエホバの証人

実は私の学生時代の友人にもエホバの証人を信仰している人はいました。
彼らは「この世は悪魔サタンによって支配されており、いつか来るアルマゲドンでサタンの支配する世界は滅び、エホバを信仰するものだけが楽園で復活する」という予言を信じて布教活動をしていました。
自分が愛する身内や友人にも救いの手を差し伸べるためにボランティアで布教活動を行っており、そこに「営利目的」は存在しないように思えます。

しかし、どこへ行ってもエホバの証人は毛嫌いされているようです。
これにはいくつかの理由があります。
ひとつは布教活動のしつこさです。

エホバの証人は信念を持って布教活動をしているため、一般の日本人にとって毎週末に訪問してくるエホバの証人がしつこく思えるのです。
また、エホバの証人の印象を悪くしているのは輸血問題や独特の聖書解釈にもあるでしょう。

 

エホバの証人の輸血問題

エホバの証人被害者人は唯一神エホバにより創造されました。
そして、人は血と肉から成っています。
キリスト教でも血をワイン、肉を種無しのパンで表したりしますね。

これがエホバの証人の聖書解釈によると、他人の血をススってはならないのです。
他人の血を自分の中に入れる輸血は「悪」ということになります。
輸血と吸血行為は同じこととされています。

これにより、様々な問題が世界中で起こっています。
わが子が病気や事故で輸血が必要なことでもエホバの証人は断るからです。
もちろん輸血も治療も個人の自由ですが、失わずに済む命も輸血を断り続けたことで無くすことがどうも他の人には受け入れられないのでしょう。
特にキリスト教徒は日本の捕鯨問題でも「人道的ではない」とか騒ぎ立てますので、「輸血を拒否」と聞くだけで「人ではない」とまで言われるでしょう。

 

兵役拒否問題

エホバの証人は人と人とが争うことを禁じています。
学生時代の友人は学校の授業の「剣道」ができませんでした。
剣道は他のスポーツと違って「人を傷付ける為のもの」だから、というのが理由でした。

宗教にも武道にもいろいろな解釈がありますね。
もちろん「剣術の道」というのは他人を傷つける戦争の技です。
しかし、後世になって「精神を鍛える」という意味を持つようになり、学校授業などに取り入れられてきました。
ここでも解釈の違いにより、エホバの証人は孤立していくわけです。

国によっては徴兵制度や兵役というものがあります。
これは国が定めた法律であるため、拒否すると逮捕、最悪の場合は処刑されることもあります。
これは輸血問題などの個人問題ではなく、お互いの意見がぶつかり合うことになりますから、「非国民だ」などと言われても仕方ありません。

こういった法律に反することもエホバの証人が毛嫌いされる理由のひとつでしょう。

 

正社員にならない純粋さ

これは必ずしもそうではありませんが、エホバの証人は非正規社員が多いのも事実です。
エホバの証人は生活の大部分を宗教活動に注ぎますから、正社員よりも融通の利く非正規社員を選ぶ傾向があります。
これ自体は別段問題ないのですが、先述した「輸血問題」や「兵役拒否問題」と合わせて「非社会的」と受け取られているようです。

エホバの証人の信仰心は純粋です。
しかし、この純粋というのが社会においては反発を呼びます。
「輸血問題」でも「兵役拒否問題」でもその純粋さゆえに拒否してしまい、社会から孤立していくのです。

純粋さゆえに孤立していく美学というものがあるのではないでしょうか。
「輸血」や「兵役拒否」といった大きな問題でなくとも、生活の中のごくごく小さなことでも私たち人間は純粋さゆえの孤独の美学を求める傾向があるように思えます。

 

エホバの証人の生死感

孤独と言ってもやはり愛する人はいるでしょう。
エホバの証人の教えでも「愛する人の死を悼むのは自然なことである」といっています。

日本人の多くは愛する人の死に個々の想いを込めて祈ったり、話しかけたりします。
しかし、エホバの証人はこれを許しません。
死者には意識がないのだから祈ったり話しかけたりしてはならないのです。

死者に祈ったり話しかけたりという行為は崇拝と捉えられるからです。
唯一神であるエホバ以外に祈ったり話しかけたりすることは、心の中に隙ができてしまい、たちまち悪魔サタンに取り入られてしまうというのです。

偶像崇拝と同じくアイドルタレントに傾倒することも崇拝と解釈されます。
これが民族の風習であっても同じです。

ここまでくると社会生活に支障をきたしますよね。
私の友人も仏式葬式での焼香の作法や神社での参拝の作法も知りませんでした。

しかし、エホバの証人は「死者には希望がある」といいます。
たとえ死んでも正しい行為を行っていれば、いつか楽園に行って「死」が訪れなくなるという希望のもと日々布教活動に精を出しています。
「輸血をせず死んだ」、「兵役を拒否して処刑された」としてもいつか復活できるのです。
つまり、現在の生死よりも復活後の死が訪れない楽園での生活に重きを置いているのがエホバの証人です。

このように信仰の純粋さゆえの色々な問題が相互に絡み合って社会から遠のいていっているのがエホバの証人だともいえるのではないでしょうか。

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