出歯亀

女湯を狙う覗き魔、時代劇で「この出歯亀が!」と呼ばれていても違和感がありません。

しかし、この言葉の由来となった本家本元の「出歯亀(でばがめ)」は、明治時代の人物。

意外に浅い歴史ですが、いったいどんな出来事から「覗き魔」「変質者」などを意味する言葉として定着したのでしょうか。

 

容疑者は覗き魔「出歯亀事件」

明治41年(1908年)3月22日、東京府豊多摩郡西大久保(現在の新宿区大久保)の駐在所に、一件の届出がありました。

電話交換局長夫人の幸田ゑん子(当時27歳)が、午後8時ごろに近所の銭湯に行ったまま、2時間以上たっても帰ってこないというのです。

すぐに警官が派遣され、近所の人々も手伝いながら付近の捜索を行ったところ、銭湯近くの空き地で幸田ゑん子さんの遺体を発見します。

死因は窒息死、銭湯で使用したと思われる濡れ手ぬぐいを口に押し込まれ、暴行の痕跡が残る痛ましい姿となっていました。

幸田ゑん子さんが殺害されたのは結婚一周年の前日、さらに妊娠5ヶ月という身重の状態でした。

世間に大きな衝撃を与えたこの事件は、当時の新聞でも大きく報じられたため、警察も総力を挙げて捜査を開始します。

現場付近で、おとり捜査や大掛かりな情報収集を行ったところ、ついに一人の容疑者の名前が浮かび上がりました。

池田亀太郎植木職人の池田亀太郎(当時35歳)、覗き趣味を持ち、女湯を覗いた罪で数回の検挙歴があったことが決め手でした。

しかし、はっきりとした証拠が無かったため別件で逮捕。

3月31日のことでした。

逮捕された池田亀太郎は、覗きや暴行などの犯行については素直に認めるものの、幸田ゑん子さん殺害に関しては否認を続けていました。

その後、警察の厳しい追求で4月4日に自供したため、強姦致死事件の犯人として決定づけられました。

自供内容によると、午後5時30分ごろに一日の仕事を終えた池田亀太郎は、居酒屋に寄ったといいます。

酒を飲み、酔いがまわってくるうちに、女湯を覗きたくなり銭湯に直行。

節穴から中を覗くと、ちょうど湯から上がって帰り仕度をしている幸田ゑん子さんに気がついたのです。

亀太郎は、ゑん子さんの後をつけ、人通りがなくなったところで空き地に引きずりこみ犯行に及びます。

悲鳴を消すために塗れ手ぬぐいを口に押し込み、犯行後は一目散に家へと逃げ帰りました。

殺害したという意識はなく、25日になって初めて幸田ゑん子さんの死亡を知ったと言います。

母親と妻子の心配があったため、自首に踏み切れなかったとのことでした。

 

冤罪?意味だけ残った「出歯亀」

この事件が「出歯亀事件」と呼ばれたきっけかは、池田亀太郎の容姿にありました。

出っ歯で頬のこけた色黒の男に、職人仲間は「出歯亀」というあだ名をつけていたのです。

家族構成は、母親(当時69歳)と妻(当時23歳)と長女(当時2歳)の4人家族。

特筆すべきは、妻は5人目であったことでしょうか。

腕の良い植木職人としての評判があるものの、性格に至っては「怠け者」、「大酒飲み」、「時に酒で妻子も忘れる」と噂されていたようです。

また、植木職人だけでは収入が不安定であったのか、土木作業にも従事。

事件当日も、解体作業を終えた帰りでした。

「出歯亀」が引き起こした性犯罪事件の裁判は、6月13日に初公判を迎えますが、殺害を自供したはずの亀太郎が証言を翻し、無実を主張します。

弁護側は、現場の足跡が一致しないこと、ゑん子さんに付着していた体液が亀太郎のものと確定できていないことを軸に、冤罪を訴えました。

しかし、8月10日の東京地裁で下された判決は、暴行致死罪での無期懲役刑。

出歯亀納得のいかない亀太郎は、無実を主張し控訴しますが、翌年の3月29に控訴院が一審を指示します。

さらに上告するも、6月29日に大審院で棄却。

判決の結果が覆ることはありませんでした。

「覗き魔」や「変質者」の代名詞として「出歯亀」が定着したのは、新聞社が見出しなどで亀太郎のあだ名を大々的に使用したためです。

被害者の幸田ゑん子さんは亡くなり、通っていた銭湯も「縁起が悪い」と周囲から敬遠され廃業。

なにもかもが消え失せた後に、「出歯亀」という言葉と意味だけが残った事件でした。

 

出歯亀事件~新聞社が定着させた流行言葉だけが残った暴行殺人~ まとめ

衝撃的な事件とともに、人々の心に焼き付いた「出歯亀」の表現。

当時の出来事が忘れ去られるなか、言葉と意味だけが引き継がれてきました。

しかし、考えようによっては、言葉が残ったからこそ事件は風化されずいるのかもしれません。

 

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