裏切りの日とは、日本史最大のミステリーのひとつとされる「本能寺の変」が起こった日を指します。
一般的に記念日というと、良いイメージがあるものですが、この6月2日「裏切りの日」はちょっと違った雰囲気を受けますね。
裏切りの日に何をしようか悩みますが、「裏切りの日」らしい一日を過ごしてみたいともおもいます。
みなさんなら何をしますか?
さて、最大のミステリーと言われる理由は、古い事件である上、重要人物の生存者が居ないことです。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変の首謀者は織田家家臣・明智光秀です。
みなさんもご存知の通り、本能寺には守備兵もなく、無防備だった織田信長を討った事件が本能寺の変です。
この事件後、織田信長、そして明智光秀の遺体も発見されていません。
これでは、何のために謀反を起こしたのか謎ですね。
このミステリーに答えるかのように57もの説が浮上しているようです。
大まかにご紹介すると、怨恨説、野望説、陰謀説、保身説、武士の面目説などです。
明智光秀は生真面目な人だったとも記されているので、人を裏切るというのはたやすいことではないでしょう。
また、大切な人を裏切るということで気持ちが貼れない日々も長く続くでしょう。
そこで、浮上してくるのが黒幕説です。
徳川家康 黒幕説
徳川家康は、当時織田家についていましたが、織田信長の家臣ではなく、あくまで三河の大名で同盟国となります。
立場としては同じ大名ですから、徳川家康が天下を狙っていたことは、安易に想像がつきます。
本能寺の変の起きた6月2日には、堺に鉄砲を買い付ける目的で徳川家康は留守でした。
鉄砲を買うのですから大金を所持して堺に出向いていたと考えられています。
明智光秀に事件を起こさせた隙きに、この大金を使って西側の大名や商人を抑えたとしたらどうでしょう。
南蛮諸国との貿易を進めていた織田信長は、堺の商人にとって有害な存在だったのかもしれません。
そのために、大金を持って西側の堺へ向かったというのが徳川家康黒幕説です。
しかし、徳川家康は本能寺の変のあと、三河へ帰るのに大変な苦労をしていますので、もし家康が黒幕なら三河へは帰らないのではないでしょうか。
羽柴秀吉 黒幕説
羽柴秀吉は、織田家の家臣です。
後に天下を統一し、豊臣秀吉と名を改め、関白まで上り詰めた英雄ですが、織田家家臣時代には冷遇されていたと言われています。
織田信長に気に入られて、数々の合戦の手柄を立てた羽柴秀吉ですが、その手柄の大きさに見合った地位ではありませんでした。
織田家には、柴田勝家など譜代の家臣たちがいる中で、最も「下」に扱われていたといいます。
実力主義で秀吉を重宝してくれる信長ですが、秀吉の身分の低さから家臣たちのトップに躍り出るのは難しいと感じるのは当然だったのかもしれません。
そこで一発逆転を狙って明智光秀を動かし、本能寺の変を企てたというのが羽柴秀吉黒幕説です。
早々に毛利と和睦し、有名な「中国大返し」で都に戻ったのも、山崎の戦いで口封じのために明智光秀を討ったというのも黒幕説に信憑性をもたせています。
また、最終的に天下を統一したということも黒幕として名が挙がる理由といえるでしょう。
安国寺恵瓊 黒幕説
当時、織田信長にとって一番の脅威は毛利氏です。
この毛利を討つため羽柴秀吉を派遣していましたが、あとに控えた信長本隊が中国へ押し寄せてくると毛利は危うくなります。
そんな毛利家存亡の危機の中、毛利家の外交を担当していた使僧・安国寺恵瓊(えけい)が羽柴秀吉と明智光秀への協力を条件に織田信長暗殺をけしかけたというのが安国寺恵瓊黒幕説です。
なぜ、毛利輝元ではなく、安国寺恵瓊が黒幕として名が挙がるのかというと、羽柴秀吉が天下をとったあと、毛利氏だけでなく安国寺恵瓊も特待の優遇を受けていたと記されているからです。
安国寺恵瓊のおかげで羽柴秀吉が天下をとれたとしたなら納得できる処遇だというのです。
仏教勢力 黒幕説
織田信長は南蛮との貿易を進め、キリスト教を積極的に保護していたと言われています。
それと同時に、織田信長は比叡山延暦寺や石山本願寺など、仏教勢力を弾圧していたことから恨みを買っていました。
石山本願寺の顕如は、この弾圧により織田信長と敵対し、僧兵を率いて最後まで抵抗する姿勢を見せるほどでした。
当時の本願寺の総本山は大坂でしたが、天皇からの仲介により信長と和睦し、大坂から撤退することになりました。
和睦とはいえ、総本山を撤退させられたのですから、恨みは相当なものです。
まして、大坂の総本山は、現代で言う都会ですから、ここを拠点に信者を増やしたいが、それができない。
財政面でもかなりの痛手を被ったに違いありません。
この石山本願寺を筆頭とする仏教勢力が信長暗殺を企てたとしたらというのが仏教勢力黒幕説です。
足利義昭 黒幕説
足利義昭は15代将軍です。
織田信長に奉じられて将軍になったものの、三好氏、本願寺顕如らにのせられて信長と対立し始めます。
当時は戦国時代の乱世です。
それぞれの大名が天下を狙う中、将軍とは名ばかりで、その中でも増長する織田信長と対立関係になるのは時間の問題でした。
足利義昭は、信長包囲網など数々の策を進めていましたが、これらの策はことごとく失敗します。
もともと、明智光秀は足利義昭の幕臣であったこと、信長に敗れた足利義昭が毛利氏のもとに身を寄せていたことなどから、足利義昭が明智光秀を利用して信長暗殺計画を企てたというのが足利義昭黒幕説です。
将軍になったものの思うようにいかず、数々の失策で織田信長を恨むのは当然とも言えます。
足利義昭の復権を願った明智光秀の書状があったとされ、石山本願寺、長宗我部、上杉など当時の信長敵対勢力と連絡をとっていたとも言われています。
朝廷・公家勢力 黒幕説
織田信長の居城は安土城というのはご存知ですよね。
安土城は絢爛豪華な城であったことは史書や発掘調査によって明らかになっています。
そのひとつに、天皇の住まいである清涼殿を模した御殿を建設していたという事実があります。
なぜ、織田信長は清涼殿を模した御殿を建てたのでしょうか。
これは、正親町天皇を安土に迎え、都とする考えがあったのではないかと考えられています。
この安土都構想により、被害を被るのは朝廷、公家勢力です。
正親町天皇が安土に移ると、朝廷の実権が織田信長に握られてしまいます。
その上、公家にとっては自分たちの地位が蔑ろにされかねませんし、身の危険も感じたことでしょう。
この危機感から公家勢力が織田信長暗殺を企てたのではないかというのが公家勢力黒幕説です。
これには、正親町天皇の側近である近衛前久、勧修寺晴豊、吉田兼見らの名が挙がっています。
彼らが明智光秀をそそのかし、裏切らせたのでしょうか。
裏切りの日の過ごし方
さて、裏切りの日の由来となった本能寺の変の黒幕について解説してきましたが、これはただの一説です。
当時信長は殆ど守備兵を置かなかったことから、まさか明智光秀が謀反を起こすなど考えもつかなかったことだということがわかります。
予期できることなら何か手立てはあったでしょう。
予想もつかない裏切りだから成功したのではないでしょうか。
裏切りの日に何をするか、と考えましたが、これはどうでしょう。
裏切りには、良い裏切りと悪い裏切りがあるような気がしませんか?
野球観戦などでも、ダメだと思っていた代打がさよならホームランを放ったとき、良い裏切りと感じてしまうのは私だけでしょうか。
そうです、裏切りの日には、大切な人へ予想もできないようなプレゼントを用意してもいいかもしれませんね。