西郷隆盛は、写真嫌いだったというのは有名な話で、西郷隆盛の写真はほとんどなかったので肖像画を描いたといわれています。
私たちが教科書などで見た西郷隆盛は写真ではなく肖像画だったのですね。
西郷隆盛といえばラストサムライのモデルになったといわれており、西南戦争で武士を貫く生き様が頑固なイメージになっています。
最近では、モンストでも登場し、光属性キラーのパワー型という力強いキャラで描かれています。
上野公園の西郷隆盛像もその頑固なイメージから作られたのではないでしょうか。
西郷隆盛夫人の糸子さんがこの上野公園の西郷隆盛の銅像を見たときに「こげなお人ではなか」と言ったそうです。
全く似ていなかったというのは何故なのでしょうか。
実は西郷隆盛の顔も名前も別人のものだったのです。
この西郷隆盛の謎についてご紹介します。
西郷隆盛
西郷隆盛は、薩摩藩士として、また政治家として活躍した日本最後の武士と呼ばれた人物です。
明治六年の政変で下野した西郷隆盛は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率し、鹿児島県内の若者を教育するために県全域に私学校とその分校を創設しました。
学び舎を作った西郷は、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させるなど、積極的に西欧文化を取り入れることで、外征を行うための強固な軍隊を創造することに力を注いでいました。
やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島県令大山綱良の協力のもと、県政の大部分を握る大勢力へと成長していったのです。
一方、近代化を進める中央政府は明治9年に廃刀令、金禄公債証書発行条例を発布しました。
この2つの条例は帯刀、俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族にとっては精神的かつ経済的なダメージを負わせる出来事となりました。
これが契機となり「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」が起こり、後の西南戦争または西南の役とよばれる戦いに発展していくのです。
西南戦争は、現在の熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱であり、明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦となりました。
この西南戦争に負けた西郷隆盛は自害し、日本武士の最後となったわけです。
西郷隆盛の名言
西郷隆盛は「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽くし、人を咎めず、ただ己れの誠の足らざるを尋ぬべし」という言葉を残しています。
これは孟子が説いた「至誠にして動ごかざる者は、未だ之れ有らざるなり」と同じ意味であり、誠の心で行動すれば動かない人はいないということです。
このことについて詳しく知りたい方は「至誠天に通ず」の記事をご覧ください。
豪快かつ頑固な逸話
西郷隆盛の家は、非常に粗末なつくりで古びていたので雨洩りが絶えませんでした。
ある日、西郷は坂本龍馬を鹿児島の自宅に招いたそうですが、雨漏りの絶えない粗末な家を恥じたのか西郷夫人の糸子さんは「雨漏りしている家にお客様を招くなんて面目が立ちませんから、屋根を修理したらいかがですか」と西郷に言ったことろ、西郷は「今は我が家だけでなく、日本中の家が雨漏りしている。」と糸子夫人を叱ったのだそうです。
坂本竜馬は、隣室で待っていたときにこの話が聞こえたようで、坂本龍馬は西郷のこの話にたいそう感心したといわれています。
こういう逸話が、西郷隆盛といえばどっしりとした山のようなイメージを作っていったのでしょう。
また、晩餐会の席で出された洋食をみて西郷隆盛は「作法を知らない」と言ってスープ皿を手に持って味噌汁のようにスープを飲み干したといいます。
これも、知らないからといって恥じることなく「私はこうだ」というような頑固なイメージとそれをやってのける豪快なイメージにつながったのでしょうか。
それにしても夫人の糸子さんからしてみれば「もうちょっとどうにか・・・」と思ったかもしれませんが、ある意味この豪快さは気持ちがいいですね。
意外な一面
西郷隆盛は、沖永良部島に島流しされた際、風土病であったフィラリアの一種バンクロフト糸状虫という人間を宿主とする寄生虫に感染し、体内のフィラリアが死滅した後でも後遺症が残るという象皮症の影響で、陰嚢が人の頭ぐらいあったといわれています。
晩年の西郷隆盛は、象皮症の影響で馬に乗ることができないため、徒歩か駕篭で移動していました。
また、酒が非常に弱く、下戸であったともいいます。
肖像画や上野公園の銅像をみると酒豪のようなイメージを抱いてしまいますが、これは少し意外ですね。
写真嫌いだった西郷隆盛
教科書などでよく見る西郷隆盛の肖像画は、本人に似ていないと西郷隆盛夫人の糸子さんは言っていました。
その理由は西郷隆盛の写真嫌いにありました。
西郷隆盛の写真嫌いは筋金入りで、明治天皇が西郷の写真を欲しがった時でも断ったほどだったといいます。
西郷隆盛は、幕府側と敵対することもしばしばあったので幾度か暗殺計画にも遭遇したこともあり、暗殺を恐れたため極力顔を出さないよう、写真撮影を拒否していたともいわれています。
結局、大の写真嫌いだった西郷隆盛の写真は一枚もありませんでした。
現在の教科書などに載っている肖像画は、西郷隆盛が亡くなった翌年にエドアルド・キヨッソーネというイタリア人銅版画家がつくったものだったのです。
エドアルド・キヨッソーネ(Edoardo Chiossone)
エドアルド・キヨッソーネは明治時代にイタリアより来日し、お雇い外国人となった版画家です。
お雇い外国人とは、明治政府が西洋諸国に対抗して国家の近代化を推進した新産業の育成政策を目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された外国人のことです。
当時、偽造されないような精巧な紙幣を自国で製造する必要があった日本では、銅版画の高い技術をもつドイツのフランクフルトにあったドンドルフ・ナウマン社から技術指導者としてエドアルド・キヨッソーネをお雇い外国人として招きました。
エドアルド・キヨッソーネは、来日して大蔵省紙幣局の指導にあたり、紙幣、印紙、証券、切手をはじめとする印刷の基礎を築き、お雇い外国人として職にあたった16年間で500点を超える紙幣や切手などを作ったといわれています。
キヨッソーネが製作にあたったのは、紙幣や切手だけではなくキヨッソーネの高い技術を認められ、宮内省の依頼で明治天皇の肖像画や元勲、皇族の肖像画も残しました。
また旧紙幣における藤原鎌足は松方正義を、和気清麻呂は木戸孝允を、武内宿禰は当時の印刷部長佐田清次を、神功皇后は印刷部女子職員をモデルに、肖像も彼が描いたものであった。
肖像画に隠された真実
西郷隆盛の肖像を依頼されたキヨッソーネですが、西郷隆盛との面識はなく、顔も見たことはありませんでした。
キヨッソーネは、当時西郷隆盛を知る人物から特徴を聞いたりしましたが、なかなかつかめなかったといいます。
そこでキヨッソーネは、西郷の朋輩であり縁者でもあった当時の印刷局長、得能良介からアドバイスを受けて西郷隆盛の実弟、西郷従道の顔を下地に、西郷隆盛の父方の従弟、大山巌の体つきを合成してイメージを作り上げて描いたということです。
また、旧紙幣における藤原鎌足は松方正義を、和気清麻呂は木戸孝允を、武内宿禰は当時の印刷部長佐田清次を、神功皇后は印刷部女子職員をそれぞれモデルにしてキヨッソーネが描いたものだということです。
上野公園の西郷隆盛像の顔もまたキヨッソーネによる肖像画をもとに作られたと思われるので、銅像が完成し除幕式に招かれた西郷隆盛夫人の糸子さんが銅像を見上げて「宿んしは、こげなお人ではなか」と叫んだというのもうなずけます。
隆盛は偽りの名前
西郷隆盛ではない!?としたらどうお思いでしょうか。
明治維新の立役者のひとりである西郷隆盛でしたが、実は隆盛とは本当の名前ではありませんでした。
では、なぜ西郷隆盛は「隆盛」になったのか。
本名は何だったのか。
明治2年、明治政府樹立に貢献した西郷隆盛は明治天皇から王政復古の章典で位階を授けられる際に、明治政府は書類に西郷の本名を記す必要がありましたが、当時、西郷は吉之助あるいは吉之介と呼ばれていたので本名を知る人物は少なかったというのです。
そこで、西郷の本名を知らない明治政府は、西郷本人が函館遠征中で連絡がつかなかった為、西郷の親友であった吉井友実に西郷の本名を尋ねましたが、当の吉井友実も西郷の本名を思い出せなかったといいます。
吉井友実は、やっと思い出した「隆盛」という名前を明治政府に伝え、政府は「西郷隆盛」で書類を作成しました。
しかし、吉井友実が思い出したとされる「隆盛」という名前は、実は西郷の父親の名前であり、西郷の本名は隆永(たかなが)であったのです。
西郷は、函館遠征後に吉井友実の間違いを知ったのですが、自ら訂正をせず、以後、西郷隆永は父親の名前「隆盛」を名乗り、また戸籍にも「隆盛」と登録して西郷隆盛となったのです。
顔と名前を偽りたかった理由
ここで西郷隆盛の謎めいた部分が浮き彫りになってきました。
西郷の写真がないからといって、なぜ弟・西郷従道の顔を下地に、父方の従弟・大山巌の顔を合成するアドバイスを得能良介は提案したのでしょうか。
西郷の肖像画が作られた時代には勝海舟をはじめ、西郷と面識のある人がまだたくさん生きていたはずです。
現在の警察のモンタージュとはいかないまでも腕のいい似顔絵描きを連れてきて、目はこんなふうだった、鼻はこうなってたと似顔絵を描いてもよさそうなものです。
西郷と面識のある画家も居たかもしれませんし、なぜキヨッソーネに依頼したのかも謎です。
また、西郷隆盛は、幕府側と敵対することもあったので暗殺を恐れたために極力顔を出さないようにしていたのは理解できますが、この肖像画は西郷隆盛の死後に製作されているのです。
普通に考えても弟と従兄弟の顔を合成したらまったく別人の顔になるのはわかりきったことですよね。
名前の件も果たして真実でしょうか。
吉井友実は、親友であったため、西郷自ら名を隠そうとして父隆盛の名をいわせたのではないでしょうか。
なぜわざと違う顔にし、わざと違う名にしたのか。
本当の顔や名がわかったら都合が悪いということもあった時代ですので西郷隆盛の謎は深まるばかりです。
永山弥一郎
永山弥一郎は、西郷隆盛に従った人物で、西南戦争の折、敵弾を受けていても薩軍の苦戦を聞くとすぐさま出陣し「官軍を防げぬとあらば、二度と再びおめもじしもはん」と大声を上げると敵弾の傷も癒えぬままに敵陣に身を投じたといわれる薩摩藩士です。
また、西郷隆盛の影武者であったといわれており、西郷の写真が無い以上、この永山弥一郎こそが西郷の顔を探る上でのヒントになるのではないでしょうか。
西郷隆盛の写真
西郷隆盛の特徴は、身長182センチ、体重114キロ、左腕が曲がらず、餅みたいなのべっとした耳といわれています。
ちょっとわかりずらいですね。
右から二人目の人物が西郷隆盛と書かれていますが、根拠がないようです。
安政4年に老中より出されたとされる指名手配書に西郷隆盛の名がありましたが、この絵ではわかりませんね。
この西郷隆盛の肖像画は平野五岳が西郷本人に面会し、その数年後に書き残したとされてますが、真相はいかに。
グイド・フルベッキ写真
グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck)は、オランダ出身で日本に宣教師として派遣された法学者です。
当時の日本で発音しやすいようにフルベッキと表記したことからフェルベックがフルベッキになったそうです。
そのフルベッキとともに写っている人たちの中に西郷隆盛がいるというのがこれまでに一番有力とされてきた西郷隆盛の写真です。
中央奥に立つ黒い着物の人物です。
これは、明治2年ころに佐賀藩の若者がフルベッキ博士を囲んで撮った写真で、大隈重信や副島種臣らが写っていたことから、他の幕末の志士たちもいたのではないかと言われ、中央の大男が西郷隆盛ではないかと考えられフルベッキ写真と名づけられました。
また、会津藩から見つかった13人撮り写真にも同一人物と思われる大男が写っています。
しかし、根拠としては大男である、島流しの後だから痩せているというようなもので確信とはいえませんね。
また、西郷の影武者であった永山弥一郎に似ているといわれていますが、こちらもどうでしょうか。
テレビ番組の中で作家の中津文彦氏は、フルベッキ写真に写っているのは長崎でフルベッキの講義を受けていた塾生を撮ったものだと解説し、当時フルベッキ氏が長崎に滞在している間に西郷隆盛が長崎に行ったという記録がないことからこの写真に写った人物を西郷とするのを否定しています。
有力な手がかり
西郷隆盛の写真の真実を探る上で手がかりになるのは、やはり永山弥一郎です。
岩手県二戸市の郷土史家の小船浩幸氏が八戸の骨董市で見つけた写真ですが、現物は譲ってもらえず、写真のコピーだけ撮らせていただいたというものがテレビ番組で公開されました。
この写真の裏書が問題で、右側に西郷隆盛、中央に西郷吉之助、左側に生保内と書かれています。
右側の西郷隆盛隆道と書かれた人物は、西郷隆盛の影武者といわれた永山弥一郎に間違いありません。
西郷隆盛の下に隆道と書かれているのは、隆盛や実弟従道の影武者として活動していたからではないでしょうか。
では、中央の人物はどうでしょう。
西郷吉之助隆永とかかれています。
西郷は、吉之助とよばれており、隆永は西郷の本名です。
これが本当の西郷隆盛かと考えられていますが、ここでもうひとりの生保内會輔舎と書かれた人物が気になります。
生保内會輔舎
生保内(おぼうち)という名は、二戸地方にとっては非常に重要な意味があります。
二戸地方には、生保内と書いて「おぼうち」と読むのではなく、小保内と書いて「おぼうち」と読む人名があります。
また、會輔舎というのがもし、會輔社を書き違えたというであったなら小保内、會輔社というキーワードになります。
小保内孫陸と小保内定身
小保内、會輔社というキーワードで考え付くのは、會輔社を創設した小保内孫陸、そして長男の小保内定身という南部藩士です。
小保内孫陸の長男である小保内定身は、久坂玄瑞などと交流して勤王思想を学び、その後、帰郷して郷里で会舗社という政治結社を作って地域の子弟の教育に従事したといわれています。
また、定身とともに會輔社を運営していた父の小保内孫陸は、安政の大獄の直後に小田村伊之助の弟、小倉鯤堂という長州人が捕縛を危惧して二戸まで避難してきたときに孫陸と意気投合したというのです。
どのような理由でこの写真が写されたのかは謎ですが、この写真に写っているのが會輔社の小保内定身あるいは弟の喜代太だとすると、西郷隆盛と會輔社、さらには南部藩士とのつながりもみえてきます。
中津文彦氏の解説によると当時、正装で共に写真に収まる事は非常に強い同志的結合や連帯感の証という意味合いがあるといいます。
郷土史研究家によると薩摩藩の反乱に呼応して南部藩も反政府に打って出る手はずであったのではないかと考える研究家もいるようで、謎は深まるばかりです。
西郷隆盛の子孫
最後に現在の西郷隆盛の子孫は、どうなっているのか動画がありましたのでご紹介します。
動画では、西郷隆盛の曾孫という西郷隆文さんは、陶芸家として活躍中で、西郷隆盛の時代からお世話になっている島津本家には、絶大な信用を置いていて、軽々しく「島津さん」などとは呼べないとかたっているそうです。
西郷隆盛の謎! ~肖像画と名前が偽者だった理由と暗殺に隠された真実~ まとめ
西郷隆盛の謎、みなさんはどうお考えになりますか?
西郷隆盛は、大の写真嫌いで、肖像画の顔はキヨッソーネによる合成だった。
そして、名前も偽りなのか、間違えただけなのか。
暗殺を恐れて隠したのか、なぜ死後も顔を偽る必要があったのか。
フルベッキ写真の真相と影武者永山弥一郎。
さらに小保内、會輔社というキーワードでつながる薩摩藩と南部藩の真相。
今後も新たな発見に目が離せそうにないですね。
→井伊直虎の謎と生涯に迫る!~おんな城主直虎ゆかりの地から家計図、家紋の由来~