「正師を得ざれば学ばざるに如かず」
これは、正しい師匠(先生)のもとでなければ、学んでいないも同然だという意味の道元禅師の言葉です。
ノーベル賞受賞者である大村智氏は、この言葉から多くを学んだといいます。
また、大村智氏は、孟子が説いた「至誠天に通ず」、リンカーンが説いた「意志あるところに道はある」などの言葉を信じることで自身の成功につながったとも言われています。
大村智
有機合成化学や触媒開発の研究でアベルメクチンを発見し、それを基にイベルメクチンの開発に取り組み続け、ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏は、
日ごろからの自己の探究心が尽きては、指導、人材育成をする立場にはなれないと肝に銘じていたそうです。
これは「教師たるもの常に勉強して進歩していなければ教師の資格はない」ということと同じことで、大村氏は研究を深めるなかで人材育成が柱になっているということに気づきました。
これは研究だけではなく、人と人とのつながりを大切にする人徳という意味での育成も含まれています。
大村氏がノーベル賞受賞後に行った記者会見で「金を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上と明治期の政治家、後藤新平が言っているように、いい人を多く残すことだ」ともおっしゃっていました。
そんな大村氏が、化学者として、経営者として、そして人として学ぶときに心がけた言葉が「正師を得ざれば学ばざるに如かず」という道元禅師の言葉です。
道元禅師
道元禅師は、鎌倉時代初期の禅僧で日本の禅宗における曹洞宗の開祖としてご存知の方も多いのではないでしょうか。
諡号は、仏性伝東国師が送られたため、国師とも呼ばれています。
国師とは、高僧に対して朝廷から贈られる諡号の1つで他に大師、禅師があるが、国師は特に皇帝の師としての尊称です。
道元禅師が広めた禅の精神とは、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるというものです。
また、仏教思想の中にある成仏とは、一定のレベルに達することで完成するものではなく、たとえ成仏したとしても、さらなる成仏を求めて無限の修行を続けることこそが成仏の本質であり、ただひたすら坐禅をすることが最高の修行であると説いています。
ここには完成や極めるといった言葉はなくただひたすら学び、探究を続けるということでしょう。
正師とは
道元禅師は「正師を得ざれば学ばざるに如かず」といいますが、正しい師匠とはどのような人物をいうのでしょうか。
正師を得ざれば学せざるに如かず。 夫れ正師とは、年老耆宿を問わず、唯、正法を明めて、正師の印証を得るものなり。 文字を先とせず、解会を先とせず、格外の力量有り、過節の志気有りて、我見に拘わらず、情識に滞らず、行解相応する、是れ乃ち正師なり。
(道元禅師『学道用心集』より)
道元禅師がいう正師とは、
言行(げぎょう)が一致している人。
つまり、言う事と行うことが一致しているかどうかということです。
言うことと行いが違う人には信用がないですから正師とは呼べませんね。
誰かの継承者で印可証明を持っている人。
これは独学ではなく師匠がいて、その師匠から学んた証拠(卒業証書)をもっているかということです。
誰かから学んだとしてもしっかり学んだかということが重要です。
格外の力量、風格がある人。
これほどの師匠を探すのは大変骨ですが、道を求める気持ちが強ければ必ず守護霊や背後霊が正師へ導いてくれるともいわれています。
正師を得ざれば学ばざるに如かず
道元禅師は、正師のもとで学ぶことが何にも増して重要だと述べられています。
つまり「正師に出会わなければ学ばない方がマシだ」というのです。
特に道元禅師によって日本に伝来した真理探究というのは、それほど難しいものであり、一歩間違うと全く違う考え方になり、正しく伝わらないということです。
確かに何事においても自己流で物事を学ぶのは、間違った方向へ行く危険と隣り合わせとなり、さらにその間違いは探究すれば探究するほど本来の教えとのズレが大きくなっていくことがあります。
逆に言い換えれば正しい方向に進んでいれば必ず正師に出会えるともいえます。
ただ、やはり自分の考えを点検してもらう正師が必要なのではないでしょうか。
ひたすらに学び続ける。
これこそが大村智氏をノーベル賞受賞に導いた鍵ではないでしょうか。