京野菜とは、京都府で生産され京都の雰囲気を醸し出す京都特産の野菜として親しまれていますが、現在では、一般的に京の伝統野菜やブランド京野菜を指すことが主流です。
しかし、本来の京野菜の定義は曖昧で、どれが京野菜なのか明確に定められていません。
実際には京都府内で生産されない野菜も京野菜として扱われているのが現状です。
では、いったい京野菜とは本来どのような野菜を指すのでしょう。
京野菜の由来
一般的に京野菜と呼ばれるものの大半は、5世紀から12世紀頃に中国や朝鮮半島から日本に伝わった根菜類をいいます。
平安京以後、朝廷を中心に大勢の人々が京都に集まりだすと、京都は大阪を介して貿易を行っていた都市ですから、交易も盛んに行われ、国内だけでなく中国や朝鮮半島からも野菜が流入し、種子や苗が京の地物野菜として栽培されるようになり、日常の食料として近郊で穀物や野菜が作られるようになったというのが京野菜の始まりともいえます。
京野菜にはそれぞれ独自の来歴があり、堀川ごぼうは豊臣家滅亡でごみ捨て場となった聚楽第の堀で発見された巨大ゴボウが起源だとか、聖護院だいこんは江戸期に尾張国の宮重大根を聖護院の畑で栽培したものだとか、聖護院かぶは近江国堅田の近江かぶが改良されたものといわれています。
中には京都ならではの伝統野菜もありますが、ほとんどは他国の種を品種改良して京野菜として品種改良し、発展させたものを京野菜と呼ぶのが妥当でしょう。
また、海が遠い京都では海産物がありません。海の幸は大阪。山の幸は京都というように京都では菜食が中心になっていき、精進料理や懐石料理といったいった山の幸の出来の良さに左右される料理が発達していったのです。
また、当時は船を用いた物流だったので、京都へ物資を運ぶのは大阪を通ってからなので、大阪で捕れた新鮮な魚も京都につくまでに腐ってしまいます。
例外として京都祇園祭りのときに食べるといわれている鱧(ハモ)ですが、鱧は生命力が強く大阪から京都に着くまで生きていられたので京都で唯一、新鮮な海の幸としてめでたい時に食べられるようになったといいます。
そういった過程で確立されてきた京野菜ですが、現代の交雑品種などに比べて生産性や形状の規格など広域流通の便が高くないため、20世紀半ばには生産が減少しました。
しかし、京都府や京都市による品種の調査により、生産、消費を拡大させるため、新たな保存法やブランド京野菜を推進し、90年代以降注目を浴びてきました。
調査によると、京野菜の品種改良は、一般的な野菜の改良品種に比べてビタミンやミネラル、食物繊維を豊富に含むといわれています。
これを切欠に、地方の伝統野菜として、大阪府のなにわ野菜、奈良県の大和野菜、石川県の加賀野菜など、各地で保存伝承の試みが行なわれています。
したがって、明治時代後半以降に日本に導入された野菜は京野菜には含まれず、5世紀から12世紀頃までに中国や朝鮮半島から日本に伝わったサトイモやダイコンなどの根菜類を京都で品種改良してできたものを京野菜と呼んでいるわけです。
主な京野菜
花菜(菜の花)
以前は切花用として栽培されていましたが、食用としてつぼみの間に摘み取っててんぷらや和え物として食べられるようになりました。
聖護院かぶら
腰高でどっしりした丸い形をしており、大きいものは5kgにもなる日本一大きなかぶらです。
享保年間に、聖護院地域の篤農家伊勢屋利八が、近江国堅田地方から近江かぶの種子を持ち帰り、栽培すると、聖護院の土地の特性が適し、立派なかぶらが出来たといいます。天保年間以降、千枚漬けが作られ有名になりました。
京みず菜
江戸時代の書物「雍州府説」に東寺や九条近辺で栽培されていた事が記されています。
水菜という名は、肥料を使わずに畑のうねの間に水を引いて栽培された事に由来します。
伏見甘長とうがらし
伏見特産野菜でとうがらしの中でも細長く辛味が少ない甘とうがらしで、伏見とうがらしの栽培は、江戸時代から行われていました。
万願寺とうがらし
大正時代に貿易の町、舞鶴市万願寺地区で栽培されたのが始まりで、 農家の自給用であったのが昭和58年より 市場に出回るようになり、今では京野菜を代表する野菜の一つとして知られています。
カリフォルニアワンダーという大型とうがらしと伏見とうがらしが交雑されて出来たのではないか?と考えられています。
堀川ごぼう
輪切りにすると中は空洞になっているごぼうで、香り高く、繊維質が軟らかいので、中まで味がしみ込みやすい特徴があります。
豊臣政権が崩壊し、秀吉の贅を尽くした聚楽第が取り壊された折、堀は民達のゴミで埋め尽くされ、ゴミの1つとして捨てたれたごぼうが巨大なごぼうになったのが由来といわれています。
九条ねぎ
300年以上前から京都の九条で栽培されていたことから、この名がつきました。