井伊直虎の謎と生涯に迫る!~おんな城主ゆかりの地から家計図、家紋の由来~

naotora12017年(平成29年)の大河ドラマは、「おんな城主直虎」と題して井伊直虎の生涯を描いた作品と発表されています。

井伊直虎をご存じない方は、「おんな城主?」「直虎?」と思われるかもしれませんが、井伊直虎とは男性の名前ですが、実は女性なのです。

NHK広報から大河ドラマ「おんな城主 直虎」に関するコメントが掲載されていました。

「おんな城主 直虎」の制作にあたって脚本の森下佳子さんやチーフ・プロデューサー岡本幸江のコメントです。

森下佳子
偉人の人生を扱うもの?歴史のダイナミズムを見せるもの?多少面白く勉強出来る歴史の教科書のようなもの?歴史観を今に生かそうみたいなもの? よし、岡本さんに聞いてみよう!
森下佳子
大河ドラマって何ですか?
岡本幸江
スターにいっぱい出てもらって、大きな舞台で大暴れしてもらう、豪華絢爛なドラマのことです
森下佳子
なんだ大河ドラマって……祭りだったのか!
森下佳子
祭りであるならば、堅苦しいものじゃなくていい。手に汗握る紙芝居、豪華絢爛な絵巻物。……何かそんなのがいい。

対談の様子を簡単に解説されていますが、これって大丈夫でしょうか?

とにもかくにも主演の柴咲コウさんがどのような直虎を演じるか楽しみですね。

そもそも大河ドラマは、視聴者が時代背景や人物像などの理解を深めることでよりいっそう楽しめる作品であることは間違いないと思います。

また、昨今の戦国時代ブームでは「戦国無双」「戦国BASARA」に代表されるように、必ずといっていいほど女性キャラが登場しますが、その中でも異色なのが井伊直虎です。

なぜなら「戦国無双」「戦国BASARA」に登場する女性キャラは、「お市」「鶴姫」「ねね」「前田まつ」「阿国」「細川ガラシャ」など、武将ではなく史実では「姫」と呼ばれる位置づけの人物を戦うキャラクターに作り変えたものがほとんどです。

しかし、井伊直虎は本当の女性であり、本当の武将なのです。

井伊直虎は、徳川家康の側近として徳川四天王に数えられるほどに出世した井伊直政を育てた叔母としても知られていますが、そんな井伊直虎が女性でありながら何故、男の名前を名乗り、戦国時代の領主、武将、城主として活躍するに至ったのか、また何故女性の城主を認めたのかという謎に迫ってみたいとおもいます。

 

井伊八幡

tomoyasu002井伊氏は、江戸時代に編纂された「寛政重修諸家譜」に「藤原氏良門流」と記されており、藤原北家良門の三男、藤原利世の五代孫にあたる備中守藤原共資が神童と噂されていた共保を養子にもらい、この藤原共保が家督を継ぎ、井伊谷に移り住んだことで井伊共保を称したといわれています。

しかし、藤原利世という人物は、藤原氏の家系図に名前が記されていないといわれており、謎のままです。

さらに、共保の出生に関する奇瑞譚が記されている。

寛弘七年(1010)、正月元旦に遠江国井伊谷八幡の神主が御手洗井のあたりで生まれたばかりの男子を見つけ、その赤子の美しく晴れ晴れとした眼差しを見て、ただの赤子ではないと思い、家に連れ帰って我が子のように育てました。

その子が七歳になったとき、神童ではないかという噂をききつけた備中守共資が養子としてもらいうけ、成長ののちに娘と娶わせ共保と名乗らせたといいます。

また、井伊谷八幡の神主が共保をみつけた井のかたわらに橘が一果あったことから橘紋を使うこととなったともいいます。

井伊家初代当主となった井伊共保は、後の井伊家において神格化され、井伊八幡として直虎や直政らも拝礼していたといいわれています。

 

井伊家

tachibana直虎が生まれる以前の井伊家の家督は、井伊直平、井伊直宗、井伊直盛と続きますが、まずは井伊直平からみていきましょう。

井伊家は、井伊直平の代で今川家に臣従していましたが、遠江を巡る争いで引馬城主大河内貞綱が尾張の斯波義達と組むと、井伊直平も大河内に味方し、駿河の今川氏親に対して挙兵しましたが、今川家の朝比奈泰以による猛攻で井伊城は落とされます。

この頃、1532年に井伊直平が黙宗瑞淵を迎えて龍泰寺を建立し、井伊家の菩提寺とします。

龍泰寺は、1560年に龍潭寺【りょうたんじ】に名称を変更し、後の井伊直虎、直政らに大きく関わることとなります。

高齢であった、井伊直平は、子の井伊直宗に家督を譲りましたが、今川氏輝の後継者として花倉の乱を制した今川義元と太原雪斎による三河織田家の田原城攻めに当主井伊直宗、井伊直盛らも参陣した小豆坂の戦いにて悲運にも井伊直宗が討死してしまうのです。

そして直宗の子、井伊直盛が井伊家当主を継ぐこととなったのです。

 

井伊家の家系図

 

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井伊直虎

naotora400x400井伊次郎直虎は、遠江井伊谷城主であった父・井伊直盛、母・祐椿尼の一人娘として誕生しました。

井伊直盛には男子がいなかったため、亡くなった井伊直宗の弟である井伊直満の子、当時8~9歳の井伊直親を直虎のいいなずけとし、後に婿養子に迎えて家督を継がせるつもりでしたが、井伊直満とその弟の井伊直義が武田信虎に通じているという小野道高の讒言によって今川義元へ対する謀反の疑いをかけられ、井伊直満とその弟の直義は自害させられてしまいます。

この一件により、直満の子である直親自身も命を狙われることとなり、信濃に逃亡したのです。

直親の所在が知られないように逃亡先だけでなく生死も秘密にしていたため、いいなずけであった直虎は直親が死んだと思い、失意のまま龍潭寺に出家し、祐圓尼(ゆうえんに)という出家名を名乗ります。

祐圓尼には別の縁談が持ち上がったともいわれていますが、定かではありません。

その後、祐圓尼は井伊家の惣領である次郎と法師をつなぎ合わせて、次郎法師という名を名乗ります。

直親はのちに今川氏に復帰することになりましたが、信濃逃亡中に直盛の養子となり井伊一族の分家にあたる奥山親朝の娘と結婚し、虎松(後の井伊直政)が生まれました。

このあたりがすごくドラマチックで、いいなずけが一転して兄弟になってしまったわけです。

直虎は、これにより婚期を失うこととなったともいわれており、生涯独身を貫いたのです。

 

井伊家の不運

IY_HK永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川勢の本体として先鋒を任せられた井伊直盛が討死、直盛の養子となっていた井伊直親が家督を継ぐことになります。

桶狭間の戦いで今川義元が討たれた混乱の中、三河の松平元康が自立の動きを示し、織田信長と清洲同盟を結ぶのですが、小野道高の子、小野道好により、井伊直親が松平元康と手を組もうとしていると今川義元の後を継いだばかりの今川氏真に対して讒言したことにより、直親はまたも小野家の計略にかかり謀反を疑われた井伊直親は、駿府に呼ばれて主従20騎にて向かったが、途中の掛川城下にて今川家の重臣朝比奈泰朝に取り囲まれ、謀殺されてしまうのです。

まだ幼い直虎(のちの井伊直政)ら、井伊家一族にも累が及ぶところでしたが、次郎法師(直虎)の母の兄である新野左馬助親矩が寿桂尼や今川氏真に嘆願し井伊家は救われたのです。

井伊直親亡きあと、家督を継ぐべき虎松(井伊直政)は、まだ2歳と幼いこともあり、隠居していた曽祖父の井伊直平が後見人となりました。

21しかし、永禄6年(1563年)に今川氏真の命令により井伊直平が高齢を押して出陣し、犬居城を攻略している最中に有玉旗屋の宿にて直平が急死してしまいます。

井伊直平の急死により、井伊家の名を継ぐ男子は、直親の遺児である幼い虎松ただ一人となったのです。

井伊直平の死は、今川氏真の命を受けた者による毒殺といわれており、直平と一緒にお茶を飲んだ家来も毒死したといいます。

当然、まだ幼いとはいえ井伊家の跡取りである虎松(井伊直政)も命を狙われたため、直虎の母の兄にあたる新野左馬助親矩により虎松は保護されました。

しかし、翌永禄7年(1564年)にはまたも今川氏による曳馬城の戦いに参戦した新野左馬助親矩や井伊家重臣の中野直由らが討死し、跡継ぎ虎松の保護や井伊家を支える者を失ってしまったのです。

井伊家は度重なる不運により跡取りを亡くし、多くの家臣を失ったことで存続の危機に陥ることとなります。

 

女城主の誕生

井伊家唯一の男子となってしまった幼い虎松(後の井伊直政)は、小野道好により執拗に命を狙われていたため、翌永禄8年に龍潭寺の住職であった南渓和尚の計らいにより三河の鳳来寺に移され、次郎法師はその後見人として井伊直虎と名を改め、井伊家当主として、また女城主として井伊家存続の危機を免れることとなったのです。

一時は養子を迎えようという話もあったといいますが、龍潭寺の南渓瑞聞和尚が次郎法師を「男」として還俗させる「女地頭」を提案をしたともいわれています。

また、虎松は、鳳来寺でも命を狙われたため、虎松の生母である奥山朝利の娘は、今川家臣の松下清景と再婚することで一時、井伊虎松の井伊姓を捨てさせています。

ここで、不思議なのが井伊直虎の家督相続です。

これまで、井伊家に度重なる抵抗を示していた小野道好の妨害も無く、同様に今川氏真もこの家督相続を認めているという点です。

井伊直虎が、女領主、女城主となる事で家臣らは失望したかもしれませんが、井伊谷徳政令にみられるような機転と交渉力で小野道好を抑え、今川家の許可を得たと考えることもできますが、いかに。

 

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井伊直虎の遺品

紺糸威本小札胴丸

井伊直平・直宗・直盛・直親・次郎法師直虎所用(室町末期)

iinaotoramarulogoこの胴丸は、井伊家に残る甲冑類の中では最古の鎧胴で、井伊直虎所用の遺品です。

先の項でも述べましたが、井伊直政の代になる前に一時、存亡の危機に瀕したため、井伊家は伝来古器の殆どを失っています。

井伊直政の養母となったおんな城主直虎が辛うじて井伊の家名を継承し、井伊家ゆかりの品の中でも数少ない武具を護りぬいたことにより残る貴重な品です。

中世末~戦国期に及び、井伊直平から直宗、直盛、直親を経て直虎に至る時代のもので、一部江戸期に補修されているようですが、この井伊家ゆかりの胴丸を護りぬいた井伊直虎所用と伝えられているのも肯けます。

 

避災回禄観音(龍泰寺旧尊)

naotorakannon永禄3年に井伊谷龍潭寺の前身である龍泰寺が火災で炎上した際、この観世音菩薩像は危うく難を逃れ救出されたと伝わっています。

その後、井伊直虎の信仰護持仏となったといわれています。

この井伊直虎護持観音は、井伊直虎の没後に井伊家にゆかりの深い奥山家に伝えられ、保存されていました。

かなり傷んでいますが慈愛の表情に満ちた平安時代の仏像です。

 

 

直虎愛用の鏡

naotora-kagami03松に二羽の鶴を施した吉祥柄の鏡です。

紐座は、菊亀甲亀紐とこれも吉祥柄です。

亀と双鶴が接嘴した図柄は室町時代の特色とされています。

 

直虎直筆四神旗

naotora-shijinnki井伊直虎の自画自書と伝えられている四神旗です。

直虎は、井伊家守護のため、本営の帷幄にこの四神旗を備え置いたとされています。

東西南北の守護神である四獣神は、中国古代の思想に端を発し広く用いられ、朝廷での祭儀においても四神旗が掲げられた例がみられます。

この直虎の四神旗には、北方の玄武に代わり勾陳が配されています。

(四神旗の写真はNHK「歴史秘話ヒストリア」TV放送より)

 

井伊直虎所用脇差

naotora-kanetomo井伊直虎常用の脇差で、銘は兼友と刻まれており、直江志津の兼友の作です。

江戸時代には与板藩主の井伊直暉の愛刀だったと伝えられています。

拵は井伊直暉が所用していた時代のもので、いかにも品格にあふれた優作です。

 

井伊直虎記念贈遺

shizuhp志津兼氏(長さ約七寸七分 生ぶ無銘)

井伊直虎が直政に送った懐刀で、井伊直政懐中の秘剣と呼ばれています。

この懐刀には逸話があります。

天正10年、徳川家康は甲州若神子において北条氏直の大軍と戦いました。

世に言う若神子陣です。

戦況は徳川方優位の内に推移し、やがて北条氏直から停戦の提案がされました。

この時、徳川方の初議の使者として選ばれたのが井伊直政だったのですが、万一の場合の覚悟をもって鎧下着の内にこの直虎より贈られたこの志津兼氏の懐剣をひそかに忍び持って北条方に乗りこみ、無事使者の大任を果たしたといいます。

直虎から井伊家当主としての教育を受けた直政若干22歳の気概偲ぶ貴重な史料です。

ここから井伊直政の立身がはじまった原点ともいえます。

志津兼氏について

志津とは元来、美濃国の地名であるが、此の地に正宗の門人兼氏が来住して作刀したことから、地名をとって志津三郎兼氏と呼称している。従って、単に志津と呼んだ場合、兼氏を意味することになる。古来、彼は正宗十哲の一人に数えられ、それらの中にあって正宗に最も近い作風を示す刀工の一人であって、尊称して「大志津」(おおしず)ともいう。本作は板目に杢目を交え、総じてつみ、地景細かく頻りに入り、刃文は湾れ調に互の目が頻りに交じり、沸厚くつき、金筋・砂流し頻りにかかる等の出来口を示している。一見して相州伝上位の秀作であり、比較的大きめの互の目が連れて焼に高低を見せる刃文の出来口には、在銘や古来の無銘極めの志津兼氏の短刀に強く結ばれるものがあり、ここに志津の極めが首肯される。なお本刀は、通常の兼氏在銘の短刀に比してやや寸延びで内内反りのついた姿形であるが、重文の名物稲葉志津の短刀に、本作とやや似た姿形を見る。地沸が一際厚くつき地景の夥しく入った鍛えは明るく冴え渡り、刃中は光輝く刃沸で一杯に満たされ、金筋・砂流し頻りに閃くなど、相州伝上位作の美点と技倆の高さを余す処なく示した出色の一口である

 

ゲームに登場する井伊直虎

戦国無双

戦国無双やDOA(DEAD OR ALIVE)で登場する井伊直虎は、勇ましく活発な少女として描かれています。

直虎の時代の井伊家には跡取りの男子が居ないため、勇ましく育たざるをえなかったというような一人娘のおてんばさが見て取れるようです。

井伊の赤備えがショートカットのキュートさをさらに引き立てているのではないでしょうか。

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戦国BASARA

戦国BASARAでの井伊直虎は凛とした大人の女性の姿で描かれています。

大剣を背負ったその姿はまさに井伊家当主と呼ぶにふさわしい風格があります。

井伊家をなんとしても守ろうとする女性の格好良さが際立っています。

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戦国IXA

戦国IXAでの井伊直虎は、勇猛果敢な鎧武者として描かれていますが、ステータスを見ると意外に軍師向きです。

この作品では井伊の赤備えにみられる軍事的強さと、井伊家を束ねた統率力と知性に焦点をあててキャラクター作りをしているのではないでしょうか。

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信長の野望

信長の野望での井伊直虎は、シリーズによって軍事的にも政治的にも描かれています。

特に井伊谷徳政令にみられる政治的手腕や井伊谷城を三度にわたり奪還した外向性がよく表されているのではないでしょうか。

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次郎法師と虎松

jirohosi次郎法師は井伊直虎と名を改め、虎松の養母となって教育しようとしましたが、虎松の生母である奥山朝利の娘とは激しく対立したといいます。

しかし、そんな井伊直虎の思いが虎松の負けん気に火をつけたようで、虎松が自ら寺にやって来て家臣の子供らと共に学び、その主従の絆が将来の井伊直政を支えることにも繋がったのでしょう。

井伊直虎は、井伊家歴代当主に記名はないが、井伊家存亡の危機を救った女城主として、さらには幼い井伊直政を自身の養子に迎え、戦国屈指の武将へと育て上げた功績は、後世に語り継がれるべき人物といってもいいのではないでしょうか。

 

井伊谷徳政令

井伊直虎は、領主の座に着くとすぐさま自分の足で領地を確かめ、自ら汗を流して共に動き、安定した収入を生み出せるよう復興政策を進めていくと、次第に家臣らの信頼を得て行ったといいます。

しかし、不作が続き農民の年貢の借金がかさむと、借金の帳消しを求める徳政令を行うよう嘆願する農民が増え、一揆も辞さない状況になっていました。

そこで、今川家は井伊谷と都田川流域に徳政令を出すように指示するのですが、これは今川氏真が井伊家を潰そうという画策があったため、容易に徳政令を出すことはできませんでした。

もし、井伊直虎が徳政令を出さなければ、今川家や領民を敵に回してしまう事になります。

逆に徳政令を出せば今までの年貢の借金を帳消しにするわけですから、商人や領民の混乱を招くだけでなく、井伊家の領内経営が成り立たなくなります。

そこで井伊直虎はすぐに徳政令は出さず、商人に「徳政令免除」の特別措置を与えて保護し、当時の金融事業をしていた寺に対しても徳政令が出た際に、貸したお金は戻らないが、担保の土地は徳政令から除外する特別処置を与え、資金調達を優先させることにしました。

今川家から徳政令を行うようにという再三の要求は、あえて時間稼ぎをしつつ、領民や商人、寺などに配慮して徳政令による混乱を最小限に留めるよう1年以上準備したうえでようやく「井伊谷徳政令」を発布したのです。

これにより、段階的に資金調達と借金の帳消しを行うことで混乱をさけ、領地を守ることができたのです。

井伊直虎は、領内経営手腕に優れた女地頭として知れ渡ったといいます。

 

宿敵・小野道好

井伊直虎が城主になってまもなく、関口氏経と連署にて領内に徳政令を出したのですが、またも小野道好の裏切りにあい、井伊谷城を奪われてしまいます。

井伊直虎は、近藤康用、鈴木重時、菅沼忠久ら井伊谷三人衆と三河の徳川家康(松平元康)の力を借りて小野の横暴に反旗を翻し、井伊谷城を奪還し、井伊家の実権を取り戻しました。

その後、井伊家は小野道好が行った井伊直親を事実無根の罪に陥れた讒言を咎めるよう家康に嘆願し、小野道好と男子2人は井伊谷の蟹淵において、獄門、張り付けの刑で処刑されました。

しかし、信濃から武田軍が三河へ侵攻し、龍潭寺は炎上、井伊谷城は山県昌景に明け渡してしまうこととなります。

その後、徳川、織田連合軍は敗戦を重ねていましたが、武田信玄が病に倒れたため撤退し、井伊直虎は三度、井伊谷城を奪還したのでした。

として、小野道好(小野但馬守道好)をに処した。小野但馬守の男子2人も処刑されている。

 

龍潭寺

98208龍潭寺の歴史は古く、天平5年(733)に行基菩薩によって開創されたと伝えられています。

室町時代末期、井伊直平が帰依された黙宗瑞淵和尚を開山として迎えて建立され、禅宗となりました。

これより、井伊家の菩提寺として井伊家に深く関わることとなったのです。

 

井伊直虎の墓

井伊家の滅亡危機を、女性ながらも井伊谷徳政令のように見事な手腕、そして強き心をもって救い、井伊直政の後見人という務めを果たしたおんな城主井伊直虎は、井伊直政が井伊家当主となり、徳川家康の伊賀越えに随行し三河へ戻った功績の褒美として家康所用の陣羽織を井伊直政が賜ったのを見届けると、龍潭寺中松岳院にてこの世を去りました。

井伊直虎の墓は、龍潭寺境内にあり、いいなずけであった直親の隣に眠っています。

井伊直虎(次郎法師)(右側)と井伊直親(左側)のお墓

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井伊家霊屋にある井伊直虎のお位牌

法名・妙雲院殿月泉祐圓大姉

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龍潭寺へのアクセス

営業時間:9:00~16:30(17:00閉門)
定休日:毎年8月15日、12月22~27日 ※行事により臨時休館の場合あり
料金:大人(高校生以上)…500円 /小人(小・中学生)…200円 ※団体割引あり(要予約)
無料駐車場あり

【電車・バス】

JR東海道本線「浜松駅」下車後、遠州鉄道バス15番ポール奥山行き乗車 → 「神宮寺」バス停下車、徒歩約10分

【自動車】

◆東名高速道路・浜松西I.Cより国道257線を北へ約20分
◆東名高速道路・三ヶ日I.Cより国道362号線を東へ約25分
◆新東名高速道路・浜松いなさI.Cより国道257号線を南へ約10分
◆舘山寺温泉街より北へ約20分

住所:静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989
電話番号:053-542-0480
龍潭寺の公式サイトはこちらから

〒431-2212 静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989

 

京都井伊美術館

ここでご紹介した井伊直虎の遺品の数々は京都井伊美術館にて保存展示されています。

展示品の写真は京都井伊美術館公式サイトのものです。

京都井伊美術館の公式サイトはこちらです。

→犬神信仰と呪詛を恐れた長宗我部氏!国をも揺るがす呪いの真相とは!?

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