二条城内全体が我が国の史跡として名高く、ユネスコ世界遺産に登録されています。
また、二の丸御殿が国宝、数多くの障壁画が重要文化財、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されなど京都を代表する建造物としても知られています。
二条城の歴史
二条城の歴史は、永禄8年(1565年)に足利義輝の「二条御所武衛陣の御構え」から始まり、織田信長が足利義昭のために築いた「二条城」、その後、信長の宿所となった「二条低」、信長が誠仁親王に献上した「二条新御所」、羽柴秀吉の「二条第」など複数の遍歴があり、現在の二条城は徳川家康が慶長8年(1603年)に築いた建造物が基になっています。
その後、何度も改築や増築をし、幕末の大政奉還を迎えると、徳川時代は終焉を迎え、明治17年(1884年)には「二条離宮」と称して宮内省の所管となり、大正4年(1915年)には大正天皇即位の儀式の大典に使用され、昭和14年(1939年)二条離宮は、宮内省より京都市に下賜し、それ以後の正式名称として「元離宮二条城」と呼ばれるようになり現在に至っています。
二条城は、徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、そして後には徳川慶喜の時代に大政奉還が行われた場所で、江戸幕府の始まりと終焉、そして徳川家に深くかかわる場所でもあるのです。
条坊制都市、京都
〒600-0000 京都府京都市下京区東塩小路釜殿町 京都駅
条坊制(じょうぼうせい)とは、碁盤の目状に広がる区画のことをいい、軍事面や民衆の管理に特化した都市プランです。
条坊制は、わかりやすく区画を割る東西南北の広い道と生活に便利な狭い道でなっており、軍事面や家事などの災害にも備えることができ、なおかつ移動がしやすく道を覚えやすいというようなメリットがあります。
条坊制には、藤原京、平城京、長岡京、平安京、大宰府、多賀城などがあり、平安京(京都)は700年以上も前の桓武天皇の時代に北極星の位置を目印に南北の大路(坊)、そして東西の大路(条)を組み合わせた碁盤の目状に広がる都市を作り上げました。
二条城の傾き
ここでグーグルマップを見てください。
〒604-8301 京都府京都市中京区二条城町541 元離宮二条城
京都の町は条坊制といって南北を拠点に碁盤の目状に配置されているはずです。
しかし、二条城は少し東に傾いてますよね。
そうなんです。二条城は、周囲の区画とズレて建てられていることでも知られています。
なぜ二条城は東に傾いて作られているのでしょうか?建築ミス?設計ミスでしょうか?
京都の町が作られた桓武天皇の時代には、北極星を目印に方位を決めていたのです。
しかし、徳川家康が二条城を造営した時代はキリスト教が日本に伝来しており、徳川家康はその権威を誇示するかのごとく、宣教師によって伝来されたルネサンス期の最新の技術を用いて建造したのです。
当時の最新技術とは、みなさんもおわかりですね?
それは、西洋人が日本に持ち込んだコンパス(方位磁石)です。
これが条坊制都市、京都の洗礼された街づくりに傾きというズレを作ってしまったわけです。
真北と磁北
北極星がある方角を「真北(しんほく)」といい地球の地軸に対して真北を表します。
それに対して、地球は地磁気と呼ばれる磁性(磁気)を持っており、その地磁気の影響によって方位磁石が一定の方向を指した北の方角を「磁北(じほく)」といい、この地磁気の変化により磁北も時代とともに変化します。
真北と磁北は、地域や年代にもよりますが、地球上のほとんどの場所でズレており、その交わる角度(誤差の角度)を偏差あるいは偏角といいます。
桓武天皇の時代の日本では、磁北は真北より東に3度傾いていたそうです。
現在の日本では、磁北は真北より西に約5 – 10度傾いているということです。
これでなぞが解けました。
京都の街づくりをした桓武天皇の時代は真北、二条城を建造した徳川家康の時代は磁北を基に北を測定していたのです。
徳川家康の時代には2種類の北がある事に気付いておらず、西洋人から伝来されたコンパスを使って磁北を北として二条城を建造したのではないかといわれているので建築ミスや設計ミスというわけではなかったということです。
この傾きの現象は、コンパス(方位磁石)が伝来された江戸時代の建造物に多く見つかっており、現在の地図を見ると南禅寺山門なども傾いていることに気づきます。
みなさん。京都の町と建造物のズレのミステリーはいかがでしたか?
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