今や世界中で愛飲されているコーヒーですが、どのようにしてここまで普及したのでしょうか。
もともとコーヒーはアフリカが原産です。
白い花が咲いた後、さくらんぼに似た小さな赤い実がたくさんなります。
この実の果肉は甘くて食べることができるので、有史以前から食用として利用されていたとしても不思議ではありません。
薬草と同じように、よく使われる植物はやがてその効能が知られるようになり、さらにいろいろな用途で利用されたであろうことが容易に想像できます。
コーヒーの起源はエチオピア
コーヒーがいつごろから人間に利用されていたかは、あまりはっきりしていません。
しかし相当の昔からであることは間違いありません。
実際、アラビカ種の原産地エチオピアではコーヒーが古くから利用されていたようですし、西アフリカ沿岸では西洋人がコーヒーを発見する前からリベリカ種のコーヒーが栽培されていたようです。
コーヒーの語源
英語の「コーヒー」という語はアラビア語でコーヒーを意味する「カフワ」から来ています。
元々カフワという語はワインのことでしたが、コーヒーにもワインに似た覚醒作用のあることからこの語が充てられたと言われています。
別の説では、エチオピアにあったコーヒーの産地カッファから来ているとも言われています。
秘薬としてのコーヒー
コーヒーの歴史については、様々な研究がなされていますが、もともとは宗教的な秘薬として一部の修行僧たちだけが生の葉や豆を煮出して用いていたようです。
その後、薬としても用いられるようになったようで、今から1,000年以上も前の文献には、コーヒーの薬理効果に関する記述が見られます。
焙煎により大衆化したコーヒー
今のようなコーヒー、つまり豆を焙煎してから抽出して飲むスタイルは13世紀以降になってから登場したと言われています。
この焙煎するスタイルにより、一躍コーヒーは嗜好品として名を馳せるようになります。
一般民衆もコーヒーを飲むようになり、15世紀には一般民衆の飲用が正式に認められるまでになりました。
ヨーロッパ、そして世界に広がるコーヒー
このころまでには、中東のイスラム世界全域からエジプトに至る地域でコーヒーが飲まれるようになっていました。
時が経つにつれ、コーヒーはさらに様々な人の手によって紹介され、ヨーロッパをはじめ世界中へと広がってゆきました。
そしてコーヒーの人気が出たことで、アフリカなどのコーヒーの産地では栽培が盛んに行なわれるようになっていったのです。
では、コーヒーの長い歴史の中から、コーヒーにまつわる伝説や、実際の興味深い出来事をいくつかピックアップしてみましょう。
西暦1258年ごろ コーヒー発見の伝説
現在のイエメンにあたるアラビアのモカの祈祷師であったシェーク・オマール(Sheikh Omar)という人物が飲み物としてのコーヒーを見出します。
モカ王の娘の病気を祈祷で癒したのですが、オマールはこの娘に恋をしてしまいます。
ところがそのことが王にばれてしまい、彼は追放処分となります。
追放先でのある日のこと、とても綺麗な羽根の小鳥が小枝にとまってさえずっているのを目にします。
その美しい声に惹かれて思わず手を伸ばしたオマールですが、その木の枝には花と実がなっているだけでした。
彼はその木になっている真っ赤な果実を摘んで帰り、スープを作ることにします。
でき上がった飲み物は、素晴らしく香りがよく、飲むと元気がでました。
そう、これが最初のコーヒーだったのです。
西暦1683年 ウィーンでコーヒーハウスが初めて開店
この年の7月に、トルコのモハメッド4世の命を受けた30万の軍隊がオーストリアのウィーンを包囲します。
対する神聖ローマ・ドイツ帝国の皇帝レオポルト1世の軍隊は、町からいくらか離れた場所に陣を構え、町には守備隊が留まって、トルコ軍の攻撃に何とか持ちこたえていました。
ポーランドからの援軍さえ到着すれば、事態を打開することができるのですが、1か月たっても援軍は来ません。
このような局面で、ポーランド軍との連絡を取るためにフランツ・ゲオルグ・コルシツキー(Jerzy Franciszek Kulczycki)という人物が名乗りを上げます。
彼はトルコの言葉や習慣について詳しく、トルコ人に変装して町を抜け出し、包囲網を突破してポーランド軍と連絡を取ることに成功します。
9月になってようやくポーランド軍と合流できた皇帝の軍は守備隊と連絡をとり、ウィーンの内と外からトルコ軍への攻撃を開始します。
コルシツキーはこの時にも、トルコ軍の包囲網をくぐり抜け、守備隊に攻撃開始の合図を伝えます。
トルコ軍に勝利した皇帝の軍は、たくさんの戦利品を手に入れます。
その中には、大量のコーヒー豆が含まれていました。
しかし誰もコーヒー豆の使い方を知らなかったため、唯一それを欲しがった功労者のコルシツキーにその豆が与えられることになります。
コルシツキーはコーヒー豆について知識があったようです。
こうして彼はウィーンで最初のコーヒーハウスをオープンしたのです。
西暦1723年 コーヒーの苗が大西洋を渡る
この年、ガブリエル・マチュー・ド・クリュー(Gabriel-Mathieu de Clieu)という大尉が、パリの植物園から手に入れたコーヒーの苗木を、彼の任地であった西インド諸島のマルティニーク島へと持ち込みました。
きっかけは、フランスに一時帰国していたおり、皆がコーヒーを飲んでいるところを目にしたことにありました。
クリューはマルティニーク島でもコーヒーの栽培ができるのではないかと考えたのです。
当時の航海は危険であり、とてもたいへんな旅でした。
1本のコーヒーの苗木を枯らしてしまうことなく到着するのはさらに難しかったことでしょう。
しかしクリューはやり遂げました。
海賊の手をくぐり抜け、ハリケーンを乗り切り、乗客の嫌がらせにも耐え、残り少なくなったわずかの水をコーヒーの苗木に注いで、やっとのことで到着したのです。
西インド諸島やメキシコ湾沿岸諸国におけるコーヒー栽培は、この大尉により苦難の末に大西洋を渡って持ち込まれた1本のコーヒーの苗木から始まったのです。
西暦1727年 コーヒーがブラジルへ渡る
当時のブラジルは、ポルトガルの植民地でした。
ポルトガルの中尉であったフランシス・デ・メロ・パルヘッタという人が、フランス領ギアナを尋ねた際にコーヒーに目をつけます。
ギアナではコーヒーの国外への持ち出しは禁じられていましたが、彼は1,000粒以上のコーヒーの種子と5本の苗木を盗み出すことに成功します。
パルヘッタはコーヒーを携えて任地へ帰り、アマゾン川河口のパラにおいてコーヒーの栽培が始まりました。
これがブラジル最初のコーヒー農園で、コーヒーの栽培はやがてブラジル全土に広がっていくことになるのです。
西暦1727年 バッハが「コーヒー・カンタータ」を作曲
当時、ドイツのライプチヒではコーヒーが非常に好まれ、社会問題となるほどになっていました。
特に、女性はコーヒーを飲むべきか否かで騒動になっていたようです。
バッハはこれを題材として、「おしゃべりをやめてお静かに」という題の風刺のきいた喜歌劇曲を作ります。
後にこれは「コーヒー・カンタータ」として知られるようになり、今ではこちらの名前で有名になっています。
西暦1773年 ボストン茶会事件
ボストン茶会事件は、アメリカがイギリスからの独立をするきっかけとなったとも言われている有名な事件です。
もともとアメリカはイギリスの植民地でした。
イギリスといえばコーヒーより紅茶の国でしたから、その文化を引き継いでアメリカでも紅茶が愛飲されていました。
情勢が変わったのは、イギリスがコーヒー貿易の競争でオランダやフランスに敗北してからのことです。
イギリスは方針を転換し、紅茶を中心とする貿易に切り換えます。
それだけではなく、いわゆる「茶条令」を発布して輸入紅茶を独占して価格をつり上げ、そのうえ重い税金までかけることにしたのです。
アメリカの人々はこの暴挙に対して非常に怒ります。
彼らはボストンに停泊していたイギリスの東インド会社の船を襲い、積荷の紅茶を全部海に投げ捨ててしまいます。
この時以降、紅茶にとって代わりコーヒーがアメリカにおいて最も愛される飲み物となったのです。
さて、ここ日本におけるコーヒーの歴史も見てみましょう。
西暦1641年 コーヒーが日本へ伝わる
日本に初めてコーヒーを伝えたのは、オランダ人だと言われています。
当時は鎖国中でしたがオランダとは交流があり、1641年には長崎の出島にオランダ商館が置かれます。
そこに駐在していたオランダ人によって、ごく限られた数の日本人にコーヒーがふるまわれたのです。
ちなみに、日本語の「コーヒー」はオランダ語の「コーフィー」から来ているとされています。
やがて、長崎を通してコーヒーは貿易品として輸入されるようになりますが、当初は薬用として考えられていたようです。
西暦1807年 幕府がコーヒー豆を支給
西暦1807年、この年にいわゆる樺太出兵がありました。
ロシアの海軍が北方で略奪を行なっていたための出兵でしたが、実際の交戦はロシア兵がナポレオン戦争が原因で引き上げたため行なわれませんでした。
しかしこの際、野菜が摂取できないことによるビタミン不足のため、水腫病にかかる兵士が大勢いたようです。
これを問題視した幕府は、当時水腫病に効果があるとされたコーヒーをそれらの兵士たちへ支給しました。
1855年ごろにも、弘前藩士のために幕府が薬用としてコーヒーを支給したという記録が残っています。
西暦1826年 シーボルトが日本でコーヒーをアピール
医師として有名なシーボルトですが、オランダ人200年以上も交流してきた日本人がコーヒーを飲む習慣がないのに驚いたといいます。
そこで彼は、コーヒーは長寿をもたらす良薬であるとしてコーヒーを大いに宣伝します。
シーボルトの書いた「薬品応手録」という文書にはコーヒーを飲むようにすすめた一文が載せられています。
西暦1888年 日本で最初の喫茶店がオープン
明治21年のこと、東京の下谷に最初の喫茶店「可否茶館」が開店します。
今では漢字で「珈琲」が主に用いられていますが、「可否」「架非」「加非」などの字も使われることがありました。
この後、カフェと呼ばれる喫茶店が日本の全国各地で次々とオープンしてゆくことになります。
西暦1889年 日本初のインスタントコーヒーが発売
この年、東京のある氷砂糖の問屋が「珈琲挽茶入角砂糖」という商品を売り出します。
お湯や牛乳などに溶かして飲む、今で言うインスタントコーヒーのようなものでした。
コーヒーの飲み方の変遷
コーヒーの長い歴史の中で、コーヒーの淹れ方にも変遷がありました。
当初のコーヒーはトルコ式、つまり挽いたコーヒー豆を煮出してその上澄みを飲むスタイルでしたが、1711年には布で濾す方法がフランスで開発され、ネルドリップの原型となりました。
1800年ごろにはお湯を注ぐ器具としてのポットがやはりフランスで考案され、それが現在のドリップポットになりました。
さらにフランスでは1827年にパーコレーターが開発されています。
コーヒーサイフォンは1830年ごろにドイツで生まれたものです。
20世紀に入り、1901年にイタリアではエスプレッソマシンが実用化されます。
1908年にドイツで布ドリップの替わりとしてペーパードリップが開発されました。
こうして、多種多様な淹れ方が可能になり、好みに応じて用いられるようになったのです。
まとめ
こうして、コーヒーの歴史をひもとくと、コーヒー文化も社会と共に発展してきたことがよく分かります。
今飲んでいる1杯のコーヒーには、こうした歴史が隠されているのです。